地 中 海ラフィーク・ハリーリー国際空港ベイルート議会議事堂首相府星の広場JaCMES殉教者広場2006年2月、開所式。右から村上徳光大使、ターレク・ミトリー文化相、池端雪浦東外大学長。*写真はすべて筆者および関係者撮影。26レバノン2015年3月、内戦下シリアの文化財保護のための会議(奈良県立橿原考古学研究所主催)。前列中央にシリアとレバノンの考古総局長。たのか。その理由は、第1に1975〜90年の内戦後、急速な復興を遂げるなかで、ベイルートが中東の学術・文化・教育の一大中心地の姿を取り戻し、言論の自由を維持していたこと、第2にレバノンがイスラームとキリスト教の多様な宗派(公認宗派はユダヤ教も含め18)が勢ぞろいし、中東の諸問題を凝縮すると同時にプリズムのように分光して見せてくれる国であること、であった。中東の動向を観察し、現地研究者と交流するうえで格好の場なのだ。2010年10月、ベイルートの中心、星の広場。特別企画黒木英充 くろき ひでみつ / AA研、北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター(併任)中東のなかでも特に波乱万丈のレバノン。首都ベイルート中心部にあるAA研の海外研究拠点JaCMES(Japan Center for Middle Eastern Studies)は、その激動を目の当たりにしてきた。◆設立の由来 JaCMESは現在16歳である。2005年4月6日、ベイルート中心部に事務所を借りた時を誕生日としている。翌年2月1日、JaCMES隣のプレスセンターにて開催の開所式にはレバノンの文化大臣も臨席、100人以上がレセプションパーティーに参加した。 しばしば「激動の中東」という言葉が使われるが、レバノンもそれを体現する。この海外拠点設置は、2005〜09年度に文科省から東外大AA研に措置された特別教育研究経費「中東イスラーム研究教育プロジェクト」によっているが、その予算措置の背景には、2003年のイラク戦争を当時の日本政府(小泉純一郎首相)が「支持」したことへの穴埋めとして、中東との文化交流活性化を求める機運があった。2005年12月のレバノン政府閣議の承認により、議会議事堂や首相府から徒歩数分の場所にJaCMESを公式に設置できたが、それは日本の文科省と外務省の後押しを得た現地の日本国大使館が、レバノン政府との間を仲介してくれたことが大きい。 そもそも日本の県規模の小国になぜ拠点を設け◆レバノンの波乱万丈 ただ「激動」は誕生前に始まっていた。事務所選定を終えた2005年2月、ラフィーク・ハリーリー元首相がベイルート中心部で爆殺される。JaCMESのすぐ脇にある「殉教者広場」(オスマン帝国末期の弾圧に抗して落命した人々を記念する国家の中心的広場)は、巨大なデモ会場となり、内戦後駐留を続けていたシリア軍は撤退。開所式から半年もたたぬうちに、今度はイスラエルが1か月間にわたりレバノンの南半分を猛爆撃した(2006年7〜8月)。2007年11月の大統領の任JaCMESの来し方と今後
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