忠■■■太■(1867-1954、山形県米沢市出身)が訪問した際に撮影した写真、右は大正11(1922)年10月に常盤が訪問した際に撮影した写真である。写真から理解されるように、常盤が訪問した大正時代にはすでに修復がなされていた。2010年の写真からも、常盤訪問後の修復の痕跡がうかがえる。 写真3、写真4は、河■南■■省■■■登■■■■封市■嵩■■■■山の南麓に置かれる「大■■■■■■■■■■唐嵩陽観紀■聖■■■■■■■■徳感応頌■■■碑■」である。高さ約8メートルもある巨大な石碑で、唐代(618-906)の天■■■■宝3(744)年に建てられた。昔の写真からは、常盤の「今日猶威■風■■四■辺■■を払って屹■■■■立している」という表現を実感できるが、現状からそうした印象は得られない。石碑がどのように見えたのか、という視点から考察するにあたって、昔の写真が歴史資料になり得る好例である。 写真5、写真6は、江蘇省南■■■■京市■の紫■金■■山■■南麓に置かれた武官の石像である。これは明代(1368-1644)の初代皇帝である太■■祖■洪■■武■帝■■と后妃の陵■■■墓■(孝■■陵■■■)に至る道(神■■■■道)に設置されている。写真5からは周囲の環境が現在とは全く異なっていることが分かる。なお、この写真は大正7(1918)年の関野貞による調査時の写真で、向き合う武官の間に立っているのが、関野である。これは自らをスケール代わりに見立てて撮影したと思われる。 いかに写真を未来へ伝えるか 本誌の読者には国内・国外を問わずフィールドワークに関心を持つ方も多いかと思う。その際、デジタルカメラやスマートフォンを使って写真を撮ることはいまや当たり前のことになった。ここまで見てきたように、そうして撮影された写真も後世には歴史資料と化すのである。 ここで悩ましいのは、写真の保存と共有の問題である。写真の原版となるガラス乾板やフィルム、デジタルデータを保存したメモリーカード、そして写真を焼き付けた印画紙等々は、いずれも経年による劣化や破損から逃れることはできない。温度・湿度が一定に管理された場所で保管できれば、一応の保全は可能だが、そうした環境の維持・整備は容易なことではない。 撮影した日時と場所を明記したデジタル写真ないしはデジタル化した写真を、たとえばクラウドのようなほぼ無制限に置くことができる空間に保管して、だれでもアクセスできるような仕組みを作ることはできないであろうか。こうした空間を作ることができれば、保存と共有の問題が一挙に解決し、誰もが写真を資料として利用できるのではないか、と近頃夢想している。 写真5 『支那文化史蹟』所掲の洪武帝と后妃の陵墓にある武官の石像。写真6 2011年2月に筆者が撮影した石像。 歴史資料としての写真 以下、ガラス乾板ではなく、前掲④所掲の写真と私が撮影した写真を対照しつつ、学術資料としての写真の可能性について述べていきたい。なお、引用した常盤の文章もすべて前掲④にもとづく。 写真1、写真2は、浙■■■■江省■■■普■■陀山■■の太■■子■塔■■(多■宝■■■■塔)である。普陀山は浙江省寧■■波■■市の東方沖の島であり、観音信仰の聖地として古くから知られている。この塔は元代(1260-1368)の元■■■■統元(1333)年に建てられた。常盤は「破損してはあるが、猶■■古■色■■■を存し、島中唯一の古構」と述べる。左は明治40(1907)年3月に建築学者の伊■東■■25
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