フィールドプラス no.27
25/32

常盤大定とその研究成果 常盤大定は、宮城県出身の僧侶で、東京帝国大学の文学部で教授をつとめた。日本における中国仏教研究の先駆者としての名声とともに、大正から昭和初期にかけて、辛■■■■■■■■亥革命後の余■燼■■いまだ燻■■■る中国大陸に渡航し、現地調査を行ったことでも知られる。先に述べた拓本やガラス乾板は往時の成果であった。 のちに同大学の工学部教授であった関■■野■貞■■■(1868-1935)とともに調査記録を整理し、以下のような書籍を出版した。 ① 関野貞・常盤大定『支那佛教史蹟 全5 「なにを研究しているのですか?」  このように問われたら、私は、「中国史の、《元代における大都(現在の北京)の歴史》と《近代における日本と中国の学術交流史》を研究しています」と答えることにしている。ここでは後者について述べていきたい。 私が大学院生として過ごした東北大学(宮城県仙台市)の附属図書館には常■■■盤大■■定■■■(1870-1945)によってもたらされた拓■■■■本(木や石に刻まれた文字や文様を紙に写しとったもの)が数多く収められている。大学院在籍時から、拓本の存在自体は認識していたものの、その中身、まして学術的価値に関心を寄せることはなかった。 ただし私にとって、常盤大定なる人物が気になる存在であったことは事実である。この点については別な文章に記したので、そちらを参照していただきたい(拙稿「モンゴル時代の石碑を探して──桑■■■■■■■■原隲蔵と常盤大定の調査記録から」櫻井智美ほか〔編〕『元朝の歴史──モンゴル帝国期の東ユーラシア』勉誠出版、2021年所収)。 ところが2009年になって、常盤の自坊である道仁寺が仙台市の市街地にあることを知り、加えて様々な偶然が重なり、道仁寺で資料を見せていただけることになった。そのなかには、古新聞にくるまれた約900枚におよぶガラス乾■■■■板(フィルム以前に利用されてきた感光材料の一種で、ガラス板に写真感光材を塗布したもの)が残されていたのである。現在それらは東北大学大学院文学研究科に移管されている。 登封市・嵩山南京市・紫金山普陀山スマートフォンの普及により、《写真を撮る》という行為はすっかり身近なものになった。こうして集めた写真を資料として扱っていくには、どのような点に注意すべきであろうか。1931年)。1938年)。巻』(佛教史蹟研究会、1925-1928年)。 ② 常盤大定『支那佛教史蹟記念集』(同、 ③ 同『支那佛教史蹟踏査記』(龍吟社、 ④ 関野貞・常盤大定『支那文化史蹟 全12巻』(法蔵館、1939-1941年)、関野の死後に常盤が①と②をまとめたもの。 ⑤ 同『中国文化史蹟 全12巻、増補1巻、解説2巻』(法蔵館、1975-1976年)、④の増補改訂版。 ③は詳細な旅行記で、それ以外は大判の写真――被写体は仏■■寺■・道■■■■観(道教の宗教施設)の建築物、仏像、石碑等々――と解説文で構成されている。すべてが常盤や関野の手になる写真というわけではないが、写真のセレクトは二人の綿密な相談を経て行われていることから、学術的に重要なものが掲載されているとみてよい。  ガラス乾板の修復 道仁寺に残されたガラス乾板のなかには、経年による銀汚染、カビの付着などで画像を確認できないものが複数あった。そこで写真修復の専門家である村林孝夫氏(株式会社リボテック大森研究室技師長)に依頼し、銀汚染、カビ、バクテリアに対して化学的除去を施していただいた。また複数のガラス乾板が圧着した例も確認されたため、その剥離もお願いした(村林氏の作業は、http://rebotech.com/projects/tohoku-univ/を参照)。結果として、400枚に及ぶガラス乾板に対して適切な化学的修復を施河南省江蘇省浙江省23フロンティア歴史資料としての写真歩く、写す、そして保存する渡辺健哉 わたなべ けんや / 大阪市立大学

元のページ  ../index.html#25

このブックを見る