兵役を終えた年齢になって通信教育で初等・中等教育を終えるとイスラーム学の高等教育を受け、博士号をとってロンドンに遊学した彼の半生である。教育制度が整っていなかった時代ならではの異色の学歴で、もはやトルコでも彼のような経歴、学識の人物が現れることはないだろう。 本当に私は、彼からは多くのことを教わった。本の内容を尋ねて知らないことはなかったし、その時々の私の研究テーマにあった貴重な本を何度見つけてくれたことだろうか。 だがそのヒルミーは、残念ながらもうこの世にいない。螺旋階段から落ちたことが元で寝たきりになり、亡くなってから8年になる。イスタンブルに行けば、今でも彼に会えるような気がするが、この詩集を読み返すことだけが、彼と対座できるもはや唯一の手段なのである。 17なってしまったのだと言う。■は本当だったのである。 その後、彼がロンドンで交通事故に遭って開頭手術を受け、九死に一生は得たものの、すっかり人柄が変わってしまったことも知った。同業者から「偽善者先生」などと呼ばれているのも、彼の学識と学歴に対するやっかみだとわかってきた。進学率の低かったトルコでは、古本屋にも当時大卒は数えるほどしかいなかったのである。所狭しと本が並んだ店内の様子。この混沌ぶりが何とも心地よかった。案内され、螺旋階段を登りきった最上階の一室には稀覯本が書棚に整然と並び、店とのあまりの落差に驚かされた。奥さんの手料理をご馳走になり、おしゃべりする一方、蔵書に私の気に入った本があれば、売ってもくれた。こうして彼の家に何度足を運んだことだろうか。イスタンブル新市街の街並み。19世紀に開発された「新」市街なので、建物の多くは100年以上も前のもの。ヒルミーの別宅?で山積みされた本を物色する筆者(撮影:ヒルミー)。自宅に本が入りきらなくなり、向かいの空き部屋を倉庫に借りていた。ペンネームで書かれたヒルミーの詩集。「尊敬すべき貴重なわが顧客にして未来の教授タカマツへ 深い愛情とともに」という献辞が書いてある。トルコ人は一般に人を姓では呼ばないが、筆者はいつもタカマツと呼ばれていた。本に囲まれて 彼の素性を知ってから、ふと思い立ちアラビア語の語形変化について質問してみた。すると普段の寡黙とはうって変わり、いつまでも解説が止まらない。饒舌ぶりに唖然としていると「なんて奥が深いんだ、そうだろう」と目が生き生きと輝いている。「他の奴らのように活用を丸暗記しているんじゃない、俺は頭の中で計算しているんだ」と誇らしげである。 これをきっかけに、彼は私によく話しかけるようになった。足元のコンロでお茶を沸かして紙コップに入れて渡しながら「お前は何回感■■■■■■■謝するか」と尋ねる。私がキョトンとしていると、紙コップに角砂糖を入れて「これがテシェッキュルだ」と言いながら片目をつぶっている。砂糖を意味するシェケルという語をアラビア語式に語形変化させた、会心のダジャレなのである。どうやら私は彼のアラビア語ギャグが理解できる程度に、話のわかる奴と認定されたらしかった。打ち解けてくるうち、彼一流のユーモアがあるのもわかってきた。売り物の古文書に、あるはずのない皇帝の花押が描かれているのを私が見つけ、「これは偽物だ!」と言うと、「いや、俺のオリジナルだ」と彼は澄まして答えたものである。 そのうち「本を見に家に来い」と、彼の自宅に誘われるようになった。どんな陋■■■■屋かと思っていると、モスクに囲まれた旧市街の立派なアパートに夕闇の甲板 留学を終えた後も、私は毎年イスタンブルに調査に行くたびに、彼の店を訪れるのが楽しみだった。彼が大家に立ち退きを通告されたと聞いた時には、思い出の場所がなくなることに心底がっかりしたが、翌年イスタンブルを訪れた際には、どうやって見つけたのか、対岸のアジア側に前とそっくりな雰囲気の店を構えていた。 それ以来、私が調査でイスタンブルにいる間中、週に2、3度は海峡を渡って彼を訪れ、夕方一緒に店を閉め、ヨーロッパ側まで汽船に乗って帰るのが恒例になった。彼はいつも船着場のそばの大通りに来て車がとぎれると見るや、私が止めるのに耳も貸さずに「走れ!」と叫んでサンダルで駆け出すのである。汽船に乗ると、甲板で彼はお茶を一緒に飲みながら「ある日ナスレッディン・ホジャが言ったことには…」と古いとんち咄を上機嫌で語り始め、話しているうちに自分でおかしくて笑い出してしまう。ナスレッディン・ホジャは、日本で言えば、一休さんや吉四六のような昔話の主人公だが、夜空の下でヒルミー自身がナスレッディン・ホジャに見えてくるのであった。忘れ形見 先日、引越しで行方不明になっていた彼の生涯唯一の著作をやっと見つけることができた。文庫本ほどの大きさの『四十人の聖者の国』という、彼から贈られた詩集である。裏表紙には、彼自身をうたった詩が印刷されている。そこに記されているのは、幼い頃から丁稚奉公で全く学校に行けず、
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