フィールドプラス no.27
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市内航路黒 海地 中 海トルコヒルミーの家イスタンブル最初の店新市街船着場イスタンブル旧市街ヨーロッパ側新しい店アジア側船着場*写真は特記以外すべて筆者撮影。16アジア側移転後の「新しい」店。何とも言えない風情の外観だが、初めての客は入るのに勇気がいるだろう。Yusuf Çağlar氏撮影(Yusuf Çağlar, Belgezar 2013, İstanbul, 2014, p.50より)。本に囲まれて座るヒルミー。傍らには紙コップ、写真では見えないが足元にガスコンロがある。どなかった時代のことである。さらに値段を耳にして驚いた。一桁間違っていないか聞き直したほど安いのである。思わぬ穴場の発見に狂喜したが、これが20歳以上も年齢の離れた友人ヒルミーとの出会いだった。 もっとも、掘り出し物を求めて足繁く通うようにはなっても、彼とすぐに親しくなった訳ではなかった。店構え以上にヒルミーは怪しげな人物だったからである。トルコ人には珍しく、向こうからはほとんど喋らない。夏でも足元に置いたガスコンロで暖をとり、貧乏ゆすりをしながら虚空を凝視している。営業しているように見えないせいで、よく店の入口をふさぐように車が停めてあったが、そのたびに彼は車の屋根を踏み越えてヌーリー『詳細詳解 公用文作成』イスタンブル、1909年刊。手紙の書き方を集めていた時に買った本。かろうじて表紙が残る。5桁の24202がヒルミーによる整理コード。出入りするのであった。いかにも挙動不審のアブない人なのである。イスタンブル留学中に見つけた怪しげな本屋。外見に似合わず古書の宝の山だったが、店よりもっと怪しげな店主がそこにいた。彼が最もウマの合う本屋の友人になろうとは、当時は思いもよらなかった。偶然の出会い イスタンブル新市街の路地裏に、その店はあった。ショーウインドウには本らしきものが見えるが、いったい何の店なのか、そもそも営業中なのかも定かではない。意を決し、段を上って扉を開けると、そこは果たして古本屋だった。しかも薄暗い店内に、よそではなかなかお目にかかれない1928年の文字改革以前のアラビア文字で書かれた古本が、棚から床まであふれていたのである。我を忘れて何冊か選び、恐る恐る仏頂面の店主に価格を尋ねると、引き出しからやおらポケットコンピュータを取り出して、扉頁に鉛筆で書かれた数字を入力し始めたのにはびっくりした。30年近くも前、日本でもデータベース化された古書店な髙松洋一 たかまつ よういち / AA研ヒルミーの素性 しかしヒルミーは本のことは実によく知っていて、質問するといつも的確な答えが返ってきた。突然「しばらく店を閉める」と言って何週間か姿を消したと思うと、イギリスから珍しいトルコ関係の古書を仕入れてくることもあった。 彼の売り物はなぜか表紙が取れたり、擦り切れたりして状態があまり良くないので、いつも全頁点検するようにしていたが、私が穴の空いた頁を見つけると、どこからか同じ本を両面コピーしてきて、穴をぴったり修復してくれたこともあった。またある時、私が落丁を告げたら、店の地下から同じ本を取り出して、欠けていた頁を切り取って補ってくれたこともあった。「そっちはもう売り物にならないじゃないか」と尋ねると、そもそも地下にストックしてあるのは、修復用の落丁本や断簡ばかりだと言う。 店の品■えと言い、どんな本でも無駄にはしない熱意と言い、やはりヒルミーはただ者ではないようである。だが彼のことを他の本屋に聞いても、どうも評判がかんばしくない。「偽善者先生(ミュナーフク・ホジャ)」という仇名で呼ぶ者もいた。「偽善者先生」とは、敬■そうに見えてイスラームの戒律を守っていない学者という意味である。彼は学位をもっていると言う■も一度聞いたが、普段の挙動からは私にはとても信じられなかった。 ところがある日のこと、私の他には客が滅多に来ない店内に一人の紳士が座って彼と談笑していた。ヒルミーの楽しそうな様子に驚いていると、お客は某国立大の学長だと自己紹介し、傍のヒルミーを指して笑いながら「こいつは俺たちから逃げたんだ」と言った。聞けば、ヒルミーはハディース研究で博士号をとり、助手時代にロンドン大に留学もしたのだが、大学に嫌気がさして本屋にイスタンブルの怪しい本屋本屋

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