フィールドプラス no.27
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り手の立場が弱く、返済していないことに負目を感じ、自発的な返済義務を負っていると考えがちである。だが、この地域では、貸し手のほうが劣位におかれているかのように貸さざるを得ない状況に追い込まれている。ここで貸付を断り周囲の村人から悪評が立てば、仲買人は農家からコーヒーを売ってもらえず、重要な収入源を失ってしまう恐れがある。農村では仲買人の取引相手となる農家とは取引以外の様々な情緒的関係で結ばれているため、これを無視してコーヒーの売買はできない。 つまり、彼はコーヒーの買付の成否を村人に負っているのである。本特集の河野の記事にある「リーダーに負う社会」と「リーダーが負う社会」という分類を援用すれば、この地域は「リーダーが負う社会」に近い。厳密にいえば仲買人は地域の有力者であるとはいえリーダーではないので「貸し手が負う社会」というべきだろうか。 金持ちである状態が農家に対する負目となるのは、農村の人びとの平等志向の強さに由来する。金持ちになりたいという志向があるのと同時に、みなが同程度の経済状況であることに安心するとき、誰かが抜きんでて金持ちになれば嫉妬のまなざしを向けられる。金持ちである仲買人は、こうしたまなざしを受けることで、倫理的な負目を感じる。 この地域では借り手が自発的に返済することはなく、貸し手が無理に返済を迫ることもない。金持ちが貸すのは当然という状況において、経済的な負債をおう者は必ずしも負目までおうわけではないのである。むしろ倫理的な負目をおうのは、経済的に裕福な貸し手のほうである。コーヒー農村でのフィールドワークは、負債/負目の複雑な絡まり合いを解きほぐす事例を提供してくれる。 9ラオスうか。そんなに返済が滞るのであれば、もう貸さなければいい。貸したところで損をするのは仲買人である。実は、仲買人は周囲の農家からの期待に応えなくてはならない社会的圧力が働いているため、貸付を完全には断れないのである。 この地域の人びとは金持ちであれば困っている人に貸すのは当然だと考えている。農村という土地に縛られて集住している人たちのあいだで貧富の格差が広がり、一部に大■けする人が生まれれば、周囲の人たちからの嫉妬が強まるため、冠婚葬祭の際に村人たちに相応の金銭的還元が期待される。村の金持ちには寛大さが求められるのである。金持ちは周囲からの期待に応えないと、「あいつはケチだ」という村人からの悪評がすぐに村中に広まり、金持ちの家族は村にいづらくなる。自分の資産を保持したければ村を出るか、村人たちとの交流を断つか、どちらかの選択肢しかない。これらの選択をしないのであれば、村に残る金持ちは困った村人たちに貸付をして、返済されなくても相手を許す態度をとるようになる。ヴィエンチャンボーラヴェーン高原一番確実な返済方法なのだ。だが、レーさんによれば、この村人はこともあろうに一番忙しい収穫期に、一家全員で北部の親戚の家に「逃げて」しまったらしい。その後、しばらくして村に戻ってきたものの、レーさんは「何度か行ったけど、『金がない』と言い続けるので、もう取り立てに行かなくなったよ」という。 要は借金を踏み倒されたわけだ。これは珍しいことではない。レーさんは他にも数人、返済していない村人がいるという。だから、今では貸付の人数を減らしている。実は同様の話を私は他の場所でも聞いている。ノンレ村の村長のラートさんも、「以前は何人かに貸していたが、返済してくれないので今は数人に絞っている」と言っていた。町に住む商店経営者のカイさん、ソーンさんも、2010年に私が集中的に仲買人の調査をしたときに同じことを言っていた。こうした語りからわかるのは、「返済しない農民」「借金を踏み倒される仲買人」は、この地域にはどこにでもいるということだ。コーヒーの収穫の様子。籐製の籠に摘み取った果実を入れる。収穫した完熟のコーヒー・チェリー。森のなかのコーヒーの木。日光が直射しないので日中でも涼しい。貸付を拒否できない社会的圧力 とはいえ、読者は不思議に思わないだろ貸し手が負う社会 この態度は、どこか立場が逆転しているかのように見える。私たちの社会では借

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