中国雲南省迪慶州塔城鎮維西県攀天閣郷いる。水田は川に沿って分布することが多く、棚田ではとうもろこしや小麦・大麦が植えられる(写真1・2)。維西県では米はほぼ家庭内で消費され、自給自足目的の稲作を数代にわたって続けてきたという。最近は米を市場で買えるが、それは標高の低い地域で生産されたもので、商品として運んできたものである。 「稲」と「米」を語彙的に区別するのは、稲作地域で話される方言である。調査し始めたころには、2つの語がどのように使い分けられるのか区別が分からず、困惑した。今思えば、語彙調査に際して、チベット系言語に特化した既成の語彙調査票を使用していたことが原因であったのだろう。チベット系言語といえば、「稲」と「米」は1つの語形(文語形式ではʼbras)を用いるということを前提知識として知っていることとも関連する(チベット語には古い時代のつづり字が残っている。これを文語形式と呼ぶことにする。本来チベット文字だが、本稿ではローマ字に翻字する。現代の各種方言の発音は多様であるが、文語形式との対応関係をもつものが多い)。この ʼbrasに対応する形式は、予想通りフィールドワーク中に記録できたが、それに加えてもう1つの形式も出てきた。その形式は、のちに文語形式のdrus ma「殻を除去した穀物」との対応関係があることが分かった。これが「米」に対応し、ʼbrasが「稲」を指すものだと考えた。 再調査の時、ʼbrasとdrus maの語義についての理解を確かめるため、「育てる」と「食べる」という動詞とどの形式が用いられるのか、と聞いてみた。すると、「ʼbras を育ててdrus maを食べる」という明快な答えが得られた。単純なことではあるが、連語関係をおさえるというのは語学的にも有効である。単語だけ学んでも正しく使えるとは限らないし、意味の理解もおぼつかない。ある名詞とともに使われる形容詞や動詞をまとめて記録しておくと、調査でもデータ整理でも役立つと実感できる。 9月ごろには刈り入れも終わり、農繁期が終わる。水田は秋冬と休ませる。秋は田で子連れの豚たちが土を掘り返して遊んでいる光景をよく見かける。この地域には「豚を牧する」(文語形式ではphag ʼtsho)という表現があり、農閑期には飼い豚を田畑に放して遊ばせる習慣がある(写真3)。豚は落穂も雑草も食べ、土を鼻で耕して、農家の手助けをする。このような連語表現は他のチベット文化圏では「ありえない」とまで言われるが、この地域の言語で「牧豚」という連語を記録しておくのは必須である。冬になり、旧正月を越すときには、村の田で闘牛が行われ(写真4)、村人総出で楽しむ風景もあった。この牛は、田植えの時期になると農具をつけて耕耘などで活躍する。写真3 牧豚の様子。写真4 闘牛の様子。これほど贅沢な語学学習はないだろう。 一方、「稲」と「米」を区別する言語では、チベット文化圏の多くの言語で特定の対照を指す名詞をもっと幅広い対象を指すものとして用いる場合もある。たとえば、チベット文化圏には「ツァンバ」(文語形式rtsam pa)と呼ばれる、「麦こがし」と訳される食べ物がある。これは通常裸麦を炒って粉末にしたものを指すが、雲南のチベット文化圏で同一の語が示すのは「穀物の粉末」である。加えて、その「穀物」に含まれる対象が村レベルで異なり、裸麦はもちろん、地域によっては小麦やとうもろこしの粉末すら含む場合がある。ただし、これまでの調査では、米粉やきな粉を「ツァンバ」とは呼ばないため、「麦類ととうもろこしの乾燥粉末」と記述するのがより妥当であろうか。このように語義を丹念に記述して、言語地図に反映させたら、何か発見があるかもしれない。とはいえ、村ごとに詳細な語彙資料を記録して地図化するのは、息の長い仕事である。 7語彙調査で気をつけること 語彙調査には、媒介言語に漢語を用いる。漢語では「稲」と「米」は異なる語であるが、少数民族語を母語とする人の中には、両者に同じ語を用いる人がいる。だから、媒介言語に区別があるからといって調査対象の対応する言語形式でもその通りに区別が出てくるとはいえない。そういった誤解を避けるためには、調査対象の言語における連語関係を記録するのが望ましい。そうすると、「米を食べる」と意図した表現が実は「稲を食べる」と言っていた、ということに気づくことができる。初学者の誤りを母語話者が修正し、それを繰り返すという手順は、一見すると語彙調査として時間がかかるが、
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