イランに全力を注いだ。時間が惜しいため、昼食はとらず、物が食べられるのは写本室が閉まった15時以降であった。写本室の責任者の女性は親切ではあったが、ときどき、平日であるのに「明日は用事があるので、おまえは来るな」などと言って写本室を閉めてしまった。ほかに閲覧者がいないので、私だけが彼女を煩わせる存在だったのである。 最終的に、目的は達せられたが、出版するとなると校正や確認が必要であり、翌年もその翌年も、この博物館を訪れることとなった。 このテキストをAA研から出版できたのは、11年後の2018年のことであった。それまでは、ヨーロッパやイランの学会で発表し、衝撃をもって迎えられたが、どこで出版すべきか(ヨーロッパか、イランか、日本か)、何語でどこまで解説をつけるべきか、迷いがあってなかなか進まなかった。別の英語の研究書の出版が終わったのち、ようやく再びこれに取り組むことができた。イラン人の友人に校正を手伝ってもらったのだが、それまでもさんざん校正をしてきたはずなのに次々と誤りが見つかり、ショックであった。 出版は、ペルシア語テキスト校訂の盛んなイランでは特に歓迎された。なぜなら、いくら私が英語や日本語で著作や論文を書いても、イランの研究者がその価値を判断することは難しい。ペルシア語テキストであれば、彼らにはその価値が簡単に理解できるし、また、国外の写本へのアクセスは難しいため、高く評価される。正直なところ、これまでもイランの人たちにはさまざまな便宜を図ってもらってきたが、ようやく、少しだけ恩を返せたような気がした。友人は出版のニュースをSNSにアップロードし、5000人もの人が閲覧した。 2020年8月、私はイラン政府から第11回ファーラービー国際賞を受けた。あのハイダラーバードでの濃密な時間がなければ、こうしたことは起きなかったであろうと懐かしく思い出すのである。 インド雑然としたハイダラーバードの光景。黄色いオートリキシャーが目立つ。こんどう のぶあき / AA研ハイダラーバード市外ゴールコンダ城のペルシア語碑文(1644年)。ペルシア語文化が色濃く残る。第11回ファーラービー国際賞の盾。授賞式はオンラインであった。イラン人の友人のSNSに登場(テレグラムより)。ハイダラーバード 2007年3月14日、私はインド、ハイダラーバード市のサーラール・ジャング博物館にいた。いろいろな障害を乗り越えて、ついに有数のペルシア語写本コレクションを持つ、この博物館の写本室に到達できたのである。目当ては、『王侯の慣わし』という題を持つ、18世紀にイランで著されたサファヴィー帝国の行政マニュアルであった。この文献自体は重要かつ有名なもので、ペルシア語のテキストが3種、英語訳2種、ロシア語訳1種がすでに刊行されている。しかし、従*写真はすべて筆者撮影。12来の研究は、イランにある一つの写本に基づいており、インドのこの博物館にもう一つの写本があるという事実は、これまで見過ごされていた。 博物館への入場から閲覧の手続きにはそれなりの時間を要したが、ついに許可がおり、写本の実物が私の下に持ってこられた。18世紀のものと考えられるその写本は、カタログにあった通り、従来の写本で欠けていた部分を含む完全版であった。写本の枠が剥がれないように気をつけながら、一枚一枚ページをめくっていった。これほど興奮した瞬間は研究者人生ではそうあることではない。イランの碩学が、欧米の研究者が、触ることがなかった写本に、自分が触れているのである。まさに、至福のひとときであった。 すべてのページをめくり終えると、冷静になってこれから何をすべきかを考えた。イランならまるごと写本のコピーがもらえる場合があるが、インドではそれは期待できない。通常、一写本の5分の1しか得られないと聞いていた。この作品の今回発見した部分は全体の40パーセントもある。もはや手で写すしかないと覚悟を決め、鉛筆を手に取った。 それからは、毎日、オートリキシャー(三輪タクシー)で博物館に通い、その写本を写すこと出版とその後歴史学では、一つの史料との出会いが研究の運命を大きく変える契機になる。私にとってその瞬間は、厳しい環境を乗り越えてたどり着いたインド・ハイダラーバードの博物館の写本室で訪れた。写本室での興奮近藤信彰ペルシア語文化を求めてインドへ
元のページ ../index.html#14