寺院がある高台から見たダパの風景。遠くに段々畑も見える。筆者撮影。10よって話され、文字も古い記録もないこの言語は、多くの話者数と高度な文字文化を持つ漢語やチベット語の狭間にあって、自他共に「小さい」ものと認識されているようだった。実際、ダパ語の話し手自身が、その言葉を教えてほしいと言う私に「これを覚えても使えないよ、チベット語を勉強した方がいいんじゃないの?」と返すこともしばしばだった。「小さいから知られていない」「知られていないからこそ知る価値がある」と、説得しながら調査をした。麦を刈るダパの人々。斜面の小さな段々畑で、ハダカムギの一種を栽培している。て複雑な起伏を見せ、その間を刻むように流れる川沿いに点々と人里があることが見て取れる。話し手たちが、川伝いに移住し、あるいはわずかに交流し合いながら、山あいに身を潜めるようにして言語文化を受け継いできた歴史が想像される。 この多言語地帯の研究は、従来の比較言語学的研究からは、なかなか決定打が出ないままだった。大学院時代の恩師である故庄■■■垣■■内■正弘先生が指導の際に繰り返し「あのあたりの言語は、『面』で見なイカン」とコメントしてくださった。一つの言語の記述に集中する「点」の研究でもなく、変化を縦の時間軸に沿って紐解く「線」の研究でもなく、同じ平面上に存在する周辺言語と関わる中で形成されてきた言語特徴を研究する、というような意味であったと理解している。最初は何よりもダパ語の音声の記録から文法を分析することで手一杯だったが、この言葉がずっと頭にはあった。次第に、地理的に近い言語と対照するといった工夫を心がけるようになった。とは言え、実際に「『面』で見る」研究が何で、それによって何がなせるのか、手探りの状態が続いた。 私にとって、“geolinguistic…”(地理言語学的〜)をタイトルに入れた最初の研究は2013年のもので、このときがこの学問分野との出会いであったと思われる。そのときの発表内容は、遠藤光暁先生から教わった方法で地図上に言語特徴の分布を示してみただけで、踏み込んだ分析をせずに終わっているというお粗末なものだった。し* 写真はすべて 白井聡子 しらい さとこ / 東京大学、AA研共同研究員中国内陸の小さな言語の研究が、多くの知の集積と地理言語学という枠組みを得て、大きくアジア広域の言語地図につながった。ダパ語との出会い 中国内陸部には未知の言語がある。そんな話を授業で聞いたことがきっかけで、現地調査に踏み出した。当時はちょうど中国の「改革開放」路線がピークにあった頃で、それまで外国人の入域を拒んでいた四川省西部の少数民族地帯も、比較的自由に訪れられるようになっていた。 成都から長距離バスに乗り、西へ。二■■郎■■山(標高3437m)の向こうは、湿った盆地から乾いた高原へ、空気ががらりと変わる。中国語で康■■定■■■、チベット語でダルツェンドと呼ばれる地方都市に着くのに、当時は丸1日かかった。翌早朝、別の長距離バスに乗り、折■多■山(標高4298m)を越えて道■■■孚(タウ)へ。この町で出会ったのが、ダパ語という、それまで概要しか知られていなかった言語の話し手だった。(なお、近年では道路の整備が進み、成都から道孚まで1日で行くことも可能。) 本来、言語に「小さい」という形容は不適切かもしれないが、標高3千メートルほどの辺鄙な谷あいの住人たち約1万人に多言語地帯を「面」として捉える ダパ語が話される地域は、チベット言語文化圏の東端、漢語エリアとの狭間にある、多言語地帯として知られる。四川4省西4部の多民族44が蝟集する細長い地域、ということで、「川西民族走廊」と呼ばれることもある。南北600km余り――東京から青森ほど――の範囲に、互いに通じない、しかし共通する特徴を持つ言語が、少なくとも十数種類、話されている。このあたりの地形図からは、4千メートル級の稜線が連なっ四川省の少数民族言語からアジアの「雨が降る」文へ
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