FIELD PLUS No.25
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7FIELDPLUS 2021 01 no.25だけを挙げると、まず羊の頭の煮物、豚や羊やヤクなどの肉料理が並ぶ。次にトゥル料理として「細かいトゥル4つ、黒糖のトゥル4つ、白いトゥル4つ」の3品が挙がる。「トゥル」とは『チベット牧畜文化辞典』(https://nomadic.aa-ken.jp/search/)によると「牧畜民の伝統的な食べ物で、たっぷりのバターとツァンパ、チーズを混ぜ合わせて作るバター菓子の総称。トゥルは、肉、バターと並び称される牧畜民の代表的な食べ物」とある(写真3)。次に「白い卵20個、赤い卵20個」が続く。 そして砂糖菓子として「氷砂糖、白糖、飴」、果実として「ナツメヤシ、ナツメ、ブドウ、マンゴー、クルミ、ザクロ、リンゴ」が挙がる。チベット高原でフルーツは育成しにくいため、交易で得られた高級品とみられる。そして「蜂蜜の細切り、黒糖の細切り、山羊肉の細切り」といった品目が挙がる。その後に揚げ菓子類として「マルツー(バター揚げ)の、ゴルワ(丸い揚げパンか)、ブカル(揚げ時間の少ない白いブ)、ブムク(深揚げして褐色になったブ)」といったバター揚げ菓子ブと、「キャトゥン(揚げ時間の少ない白いトゥン)、ムクトゥン(深揚げしてパリパリになったせんべい状の菓子)、マルラクカルポ(mar lag dkar po、不明)」といった揚げ菓子トゥンなどが挙がる。以上が料理品目である(未詳の品目は省略)。 これら揚げ菓子は、正月の宴に仏様や土地神などに謝意を込めてお供えするカプらえる職人たちへの慰労行為は、仏教徒としての善行にもつながるとターラナータは考えたのである。これらは中世チベットにおける、庶民の食の一風景を窺わせる、貴重な例といえる。なお別の資料によると、作業の節目に催される祝宴では職人たちの功績に応じて一等賞(上質の服飾一式など)から七等賞(羊毛の上着など)までが与えられたという。正月の宴席料理 ふたつめの例は、貴人の宴席料理についての記述である。すなわち、チベット語政治文書資料集『清代西蔵地方档案文献選編』の中に、宴席で貴人に献上された料理品目のリストがある(資料番号「康煕朝・10」、資料とその解読は岩田啓介氏のご教示による)。そこには「鉄牛の年、君主リンポチェ猊下(ダライ・ラマ)をセラ寺下院に13日にお招きして御祝宴を設けたとき、テンジン王に、(…中略…)33皿(料理品目)を献上した」とある。「セラ寺」はラサにあるゲルク派三大寺院のひとつ。チベットの暦である「鉄牛の年」が1721年を指すとすれば、ダライ・ラマ七世が同年の正月(ロサー)に、青海モンゴルの王侯ロブサン・テンジンを招待したときの宴席を指す可能性が高く、以下にみるようにリストの内容もその可能性を補強する。つまり、このリストは18世紀チベットの最高級の正月の宴席料理の一例を示す、稀少な資料といえる。 その内容をみてみよう。解読できた品目セー(揚げ菓子)の様々なヴァリエーションである。そしてこのカプセーを井桁に積みあげたもの(デルカ)の上に、砂糖菓子や果実を載せる風習は、僧俗を問わず現代のラサに残っている(星泉氏のご教示、写真4)。その砂糖菓子と果実もこのリストに並んでいる。 各品目には数量が記されているが、とても一人で食べきれる量ではない。おそらくは、主賓テンジン王だけでなくその従者一行をあわせて賓客として迎えたのであろう。このリストは、その頭書きによると、揚げ菓子担当の料理人が準備したもののようである。チベット料理史研究の展望 以上、中近世の中央チベットにおける食のもてなしに関する二例を紹介した。ひとつは職人へのもてなし(17世紀前半、ラツェ地方)、もうひとつは賓客への宴席料理であり(18世紀前半、ラサ)、いずれも寺院で世俗の人をもてなす例である。前者にはバター茶、チャン酒、トゥクパなど現代チベット料理におなじみの品目が並び、後者には今日にも伝わるトゥルや正月の揚げ菓子類の名が挙がるが、今では一般的な「モモ」などの名称は確認されなかった。今回扱ったふたつの例は、昔のチベット食のほんの一端を示すにすぎない。チベット料理の歴史をめぐる謎ときは、まだ始まったばかりである。 写真3 作家ツェラン・トンドゥプ氏によるトマ芋入りのトゥル(星泉氏提供)。写真4 正月に供える揚げ菓子カプセーを積み上げたデルカ(海老原志穂氏提供)。

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