FIELD PLUS No.25
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6FIELDPLUS 2021 01 no.25と期待されるが、その調査はまだ端緒を開いたばかりである。調査すべき資料はおおよそ、文字資料、モノ、無形文化に分類できる。文字資料には、高僧などの伝記類における食事の記述、儀礼文献類における供物の記述、医学書における薬膳の記述、書簡類における食関連の記述のほか、外国人によるチベット旅行記類における食の記述などがある。モノとしての資料には、絵画中の食事場面の描写、考古学的遺品中の調理器具、食器、厨房の遺構などが考えられ、さらに無形の食文化の伝統などを加えると、調査すべき対象は広範にわたる。チベット料理の歴史は、これらを網羅的に調査することによって次第に明らかになってくるであろう。ここではそのごく一端を示すふたつの例を紹介したい。写経職人を労うフリードリンク ひとつめの例は、チベット語大蔵経(仏典)の写経職人たちへの「労いの食事」の記録である。類例はいくつか確認されるが、ここでは中央チベットで活躍した高僧ターラナータ(1575~1634)の自伝の中に登場する事例を紹介したい。それによると、彼はタクテン・プンツォクリン寺(ラ昔のチベット料理を知るためには インド料理や中華料理と比べると同じアジア料理の中でも日本ではまだ馴染みが薄いかもしれないが、今日、チベット料理といえば、モモ(餃子、写真1)、トゥクパ(汁物)、ツァンパ、バター茶、チャン酒などの名が挙げられることが多い。しかし、これらの料理がいつ頃からチベットに定着したのか、また、昔のチベット料理が今とどう違っていたのかなど、チベット料理の歴史には多くの謎が残されている。そしてその謎をとく鍵は、膨大な量のチベット語資料などの中に、人知れず眠っているツェ地方、1615年起工、写真2)において、180人ほどの民間の写経職人を招き、仏典(テンギュル)の写経事業を組織した。それはおよそ8万枚にも上る仏典を書写する大変な作業であったので、ターラナータは、慰労のために職人たちの給料(穀類で支給)を増やした。それに加えて、「お茶、チャン酒、トゥクパなどや、折々の宴も、できるだけ良いものを振舞うと、写経職人たちも満足した」と記して、職人たちを満足させるためには決して物惜しみしてはならない、と続ける。その理由は、職人が不満を残したまま作業をすると、彼らの造った仏塔、仏像、仏典などに生じる「ご利益」(加持)が薄れてしまうからだと言う。そして、過去に寺院の壁画を担当した絵師50人に「お茶やチャン酒をたったの一籠分しか振舞わなかったため、絵師たちは皆がっかりしてしまった」という例を反省材料として挙げる。このような記述から窺い知れることは、職人たちに丹念に作業をしてもらうために、今風にいうとフリードリンクを振舞い、お茶、チャン酒、トゥクパといった今でも民衆に親しまれる品々で労っていた、ということである。そしてこのような寺院の什じゅう物もつをしつひと昔前のチベットの食文化を知るための手がかりは意外にも少ない。その謎ときにむけて、中近世の例から、数少ない手がかりを探ってみよう。加納和雄 かのう かずお / 駒澤大学、AA研共同研究員チベット料理の歴史の解明にむけて中近世のもてなし料理二例写真1 屋台のモモ。ラサのバルコルにて(筆者撮影)。写真2 タクテン・プンツォクリン寺の一堂宇(筆者撮影)。

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