25FIELDPLUS 2021 01 no.25枚の顔写真を見て、30分間即興でストーリーを語るバカの男性もいた。顔をどう見るのか、フィールドでは文脈に応じた脱記号化が起こる。フィールド実験は、すでに記号化された顔に慣れ親しみすぎた私たちからは決して知り得ないような、顔を記号として表すという行為それ自体の意味と多様性について再考するきっかけとなっているのである。 顔認知から「描画」研究への展望――顔を描く/描かれること 田によるケニアの牧畜民マサイを対象としたフィールドワークでは、主に農耕民、狩猟採集民、都市生活者を対象にしてきた他のフィールドでは見られないような「顔」が出てきて私たちを驚かせた。例えば、写真をもちいた描画テストでは、描画経験がほとんどないマサイたちが提示された女性の顔写真を見ながらスケッチする課題に取り組んだ。マサイは、顔より写真にある女性の全身を描き、よく「彼女はどこからの旅人? 彼女は何をしている?」と田に質問した。どうして全身まで描くのか尋ねると、「見たのは人間だから、体と手足があるのは当然でしょう!」と当たり前のように返事が返ってきた。顔と身体を切り離して捉える自身の思い込みを指摘された田はたじたじとなった。マサイが描画した顔のスケッチには、手足のみならず、内臓まで描き込まれているものもあった(図4)。このような経験を繰り返すなかで、私たちは顔とその認知について再考するためには、「顔を描く」行為そのものを対象にしたフィールドワークが有効ではないかと考えるようになった。 フィールドでもちいたのとほぼ同じ方法を使って、日本でおこなった顔・身体学プロジェクトの「哲学カフェ」や東京外国語大学の学生による「アフリカンウィークス」との協働イベントでは、参加者と対面的な顔の描画実践をおこなった(図5)。描画は描く側と描かれる側の挨拶からスタートし、「あ~、失敗した!」、「え~、似てなくて変な顔になってしまって、ごめんね!」などの謝りの連発で続いていった。このような会話の背景には、「顔を正確に、きれいに描かなければ」という暗黙の社会的認識がある。ここでも、顔の描画が社会的な営為であり、認知の枠組み(基盤スキーマ)に支えられていることが確認できる。 最後に、今後の私たちの研究について方向性を示したい。「顔」が誰にとっても普遍的な記号として存在するはずだという思い込みへの批判的な自省から再出発したい。そのために、異なる地域で同様におこなえる実践方法を工夫し、マルチサイテッドなフィールドワークをおこなう。フィールド実験は、タブレットやスケッチブックといった道具立てに媒介されつつ、調査者を含む参与者たちによるトランスカルチュラルな相互交渉の場となる。そこで生成する顔についての人々の相互行為そのものを研究対象とすることで、社会的な営為の中に生成しつづける動態的な顔を捉えることができるはずだ。 図4:マサイによる描画イラストのサンプル(左から順番に:点線の顔、イヤリング付きの顔、手足付きの顔、手足・体付きの顔、手足・体・内臓付きの顔)。参考文献:Takahashi, K., Oishi, T., Shimada, M. (2017) “Is (^_^) Smiling?: Cross-cultural Study on Recognition of Emoticon’s Emotion” Journal of Cross-Cultural Psychology, 48(10): 1578-1586. doi: 10.1177/0022022117734372図5:東京外国語大学・アフリカンウィークスでのイベント「顔を描く・顔を描かれる・顔を知る」(2019年12月6日)での描画風景。参加者には、組になって顔を描き合ってもらった(撮影・錢琨)。
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