20FIELDPLUS 2021 01 no.25それ以外の方言の研究は未だ不十分とされる。 私は、当初、文献資料を使った日本語史の研究に従事していた。方言調査を行うようになったのは、大学院の博士課程進学後のことである。きっかけは、日本語の歴史や琉球方言の研究をしていたフランス人の友人との出会いだった。文献資料だけでは、文献以前の日本語の姿に迫るのは難しい。しかし、諸方言の中には文献以前の日本語、つまり、日本祖語の姿に迫る手がかりが残されている。そんなふうに方言研究の意義と魅力を語る彼の勧めと、指導教員の先生の後押しがあり、私は方言の調査研究に取り組むことになった。島根・奥出雲というところ 島根県は、元々西の石見国、東の出雲国、そして海上に浮かぶ島々からなる隠岐国の3つの国に分かれていた。その中の旧出雲国に相当する出雲地域は、古くから神話の舞台となり、また、縁結びの神様として知られる出雲大社があることで有名である。その出雲大社がある出雲市から40kmほど南東に位置する奥出雲町で、私は主に調査をしている。「日本祖語」の姿を求めて 日本の言語学の礎を築いたとされる服部四郎(1908-95)は、日本語の起源の解明を目指すとともに、今ある多様な日本語の方言が、どのように成立したのかを明らかにしようとした。服部は、日本語の方言が多様であるのは、それらの共通の祖先にあたる言語があり、その共通の祖先の言語からそれぞれが別々の方向に変化した結果であると考えた。その諸方言の共通の祖先にあたる言語のことを、服部は「日本祖語」と呼んだ。 服部は、日本祖語の姿を明らかにするには、琉球列島の諸方言を中心とした日本語諸方言の精密な調査研究が必要であり、それが急を要するものであることを40年以上も前の論文で述べている。今世紀に入って、琉球諸方言の研究が盛んになったが、島根県奥出雲町松本清張『砂の器』で有名な島根・奥出雲。偶然の出会いから日本語の歴史を解く鍵を得た矢先、当地の方言が衰退していく様を目の当たりにする。伝統方言の記述が急がれる理由を、言語史研究の観点から考える。私のフィールドワーク奥出雲のことばから「日本祖語」の姿を探る伝統方言の記述と日本語の歴史平子達也 ひらこ たつや / 南山大学
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