19FIELDPLUS 2021 01 no.25地中海紅海ダマスクスカイロ祈・食・泥・香・甘──対策と治療 疫病の流行が始まったとき、最初にとられた行動は、集団礼拝・集団祈願であった。マムルーク朝(1250–1517)シリア州の州都ダマスクスでは、預言者ムハンマドの声を聞いたという男の話に倣い、礼拝所においてクルアーンのノア章を3360回読み、祈願を行った。また王朝の首都カイロでは、スルターンの命令により人々がモスクに集められ、ハディース(預言者ムハンマドの伝承)の読誦と祈願を数日間続けた。無論、現代の医学的知見からすれば、感染症流行時に大勢の人が1か所に集まるようなことは避けるべきであろうが、疫病の流行を神が人間に与えた懲罰と捉えた当時の人々にとって、神に赦しを乞うことは何よりも優先されるべきことであった。しかし祈願の甲斐もなく、疫病はこの後も猛威をふるい、礼拝所やモスクには命ある人々ではなく、数多くの遺体が集められることとなった。 こうした状況に置かれた人々は、神の怒りの前になす術なく死を待つばかりであったのだろうか。アラブの歴史家であり自らもペストで命を落としたイブン・アルワルディー(1349年没)によると、医学に通じた人は乾物や酸っぱいものを食べ、腺ペストによりできた腫瘍にアルメニア粘土(後述)を塗っていたという。当時の人々は、古代ギリシア医学の権威ヒポクラテス(前370年頃没)の医学を発展させたガレノス(200年頃没)の医学を、かの有名なイブン・スィーナー(アヴィケンナ、1037年没)ら中世の医学者を通じて継承していた。そこで、病は四種類の体液の混合のバランスが崩れることで引き起こされるとする四体液説や医食同源の思想に基づいて、健康によいとされる食事を意識的に摂取していたのである。また、イランやアルメニア周辺に分布する、紅色のアルメニア粘土が抗ペスト薬として作用するという説を提唱したのもガレノスである。この知識は中東地域やヨーロッパ地域に伝わり、中世のペスト流行時にも塗布薬として中東地域で猛威をふるったペスト 14世紀のユーラシア大陸を震源に、ヨーロッパ、北アフリカ、中東地域にかけて広がったのは、ペスト菌(Yersinia pestis)に起因する腺ペストである。ペスト菌はネズミなどの齧歯類を保菌宿主とする。ノミやシラミなどの節足動物の吸血や、感染した動物との接触により感染し、罹患するとペスト菌がリンパ節で増殖して腫瘍ができる。中東地域で感染が見られるようになった1348年当初、耳の裏におできができ、それが落ちると脇の下に球状の突起が出現するという腺ペスト特有の症状が報告されていた。しかし、翌年になると、吐血し、間もなく死に至るという新たな症状が見られるようになった。肺に菌が侵入して肺炎を引き起こす肺ペスト特有の症状である。発症すると24時間以内で死に至ると言われ、ヒトからヒトへの感染も引き起こす厄介な感染症でもある。実際、中世エジプトの歴史家マクリーズィー(1442年没)は、「この疫病においては、飲み物も薬も医者も不要であった。(発病から)死までがあっという間だったからである。」と書き残している。1日の死者数は2万人にのぼり、カイロで行われた葬儀は、2か月間で90万件を数えたという。このときのペストにより、エジプトの人口の3分の1が死亡したとも言われる。用いられた。中東地域においては、アルメニア粘土を塗るだけに留まらず、飲むことも治療法として効果があるとされた。加えて、彼らは、淀んだ空気が病を引き起こすというヒポクラテスが唱えた瘴しょう気きの考え方も継承し、罹患者がいるところに近寄ってはいけないという認識も持っていた。人々は病から身を守るために、龍りゅうぜんこう 涎香や樟しょうのう脳、ハマスゲ(香こう附ぶ子し)や白びゃくだん檀などの薫香を焚きしめ、居住空間の空気を清浄な状態に保つことに努めたのである。万が一、感染してしまった場合には砂糖がペストの症状に効果を発揮すると考えられていた。当時の中東地域では、砂糖が広く流通し、甘味料としてのみならず、さまざまな効能を持つ生薬としても使われていた。砂糖はペスト流行時に生薬として重宝され、砂糖を販売する生薬商が大もうけするほどであった。 このように、神の怒りを畏れつつも、日々「実践的な」感染症対策や治療を試行錯誤する人々の様子は、どこか現代の私たちの振る舞いに通じるところがあるように思えてならない。 現在のアズハル・モスク(筆者撮影)。ペスト流行時、カイロの人々は、アズハル・モスクなどでハディースを読誦した。カイロ旧市街の目抜き通り(筆者撮影)。普段は人々で賑わうこの通りにも、ペスト流行中は人気がなくなったという。この写真を撮影したのは、折しも新型コロナウイルスの流行が顕在化し始めた2020年2月。中世の中東地域で猛威をふるったペスト禍において、人々は神の怒りを畏れて赦しを乞いながらも、日々「実践的な」感染症対策を講じて試行錯誤した。熊倉和歌子 くまくら わかこ / AA研祈りと医学中世ペスト禍の中東地域の人々感染症対策特別編フィールドで見つけました連載企画4
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