18FIELDPLUS 2021 01 no.25中国チベット自治区インドダラムサラタワンダラムサラで友人からもらった香薬リムスン・リルプ。五大元素(地水火風空)を表す五色の紐で結ばれている(2020年、筆者撮影)。タワンでのチベット医学の伝統医による鍼治療の様子(2014年、筆者撮影)。長引く風邪に効く薬として人気のあるタズィ・マルポ。タワンでは寒い冬になるといつも売り切れていた(2014年、筆者撮影)。SARS以降のチベット薬ブーム チベット薬の一つである宗教薬は、2003年中国でSARS(重症急性呼吸器症候群)が流行した時にチベット人だけでなく中国人のあいだでも関心を集めた。当時、標高の高さや気温の低さが関係していたのか定かではないが、なぜかチベットではSARSに感染する者がほとんどいなかった。そのため、多くの中国人がチベットの薬や香を買い求めたのである。それ以降、中国では様々なチベット薬が各地に広く流通するようになり、さらに、インドに住むダライ・ラマ法王の加持が込められた薬は一層の効果があるとされて、インドからも宗教薬が中国にもたらされるようになった。チベット医学における伝染病の概念 12世紀に編纂されたチベット医学の医典『ギュー・シ』には、伝染病についてニェンネー、リムネー、ニェンリムの三つが記されている。ニェンネーは、石や木に棲むニェンという神霊(全身また宗教薬から始まる一日 インド北東部タワンでは、多くの家庭にチベット仏教の真マントラ言が込められた宗教薬(仏僧によって加持祈祷がされたもの)が保管されている。体調がよくないとき、人々は病院やチベット医学の診療所に行く前に、まず宗教薬を用いて体調を整えていた。ホームステイ先のサンモ(60代女性)の家庭では、毎朝必ずマニ・リルプ(観音菩薩の真言が込められた丸薬)とセルトー(粉末状の香薬)という二つの宗教薬を家族みんなで服用して一日がはじまった。マニ・リルプは、沸かした湯に漬け置きしたものを服用し、セルトーはフライパンで火にかけて煙を焚き、顔に浴びたり口の中に入れたりする。サンモは、宗教薬が「病気や災いを防いで風邪も治してくれるのよ」と言い、娘のツァムチュー(30代)は二日酔いがひどいときにも宗教薬を利用していた。は半身がサソリ)がもたらす病や、目に見えない微細な虫シンブがもたらす病をさす。リムネーは、腐敗した食べ物や汚れたもの、動物の毛皮や骨を燃やすことなどで生じる不浄なにおいによってもたらされる病である。ニェンリムは、パルパタという目に見えない微細な生物がもたらす発熱を伴った進行性の伝染病を意味し、パルパタとは大きな口と蛇のような体をもち、羽と多くの足がついた生物とされる。シンブやパルパタは、人間の鼻や口、皮膚の毛穴から体内に侵入して病気をもたらす存在であり、寄生虫や細菌、ウイルスのイメージにも近い。現代のチベット医(アムチ)たちは、このような微細な生物や不衛生な環境、腐敗物がもたらす三つの伝染病の概念の範疇に、天然痘やペスト、SARS、COVID-19といった感染症も含まれるとする。COVID-19と香薬 COVID-19流行当初の2020年1月、多くのチベット難民が暮らすインド北西部ダラムサラではリムスン・リルプというチベット薬に人々が殺到した。リムスン・リルプは黒い布に包まれた伝染病予防の丸薬で、アロマセラピーのように生薬由来の香りの効果によって病気を防ぐものである。アムチは、COVID-19の予防にも効果があるとし、チベット系メディアで度々報道された。2014年のダラムサラ滞在時、私は友人のペマ(50代女性)からこの香薬をもらったことがある。彼女は、チベットのお守りにこの香薬を結びながら「絶対に食べてはだめよ」と言った。ニンニクのほか硫黄やトリカブトなどが含まれ、食べると死んでしまう恐れがある強力な薬だからである。COVID-19予防薬の一つとして、リムスン・リルプはチベット人社会で関心を集めた。しかし、インド政府が混乱を避けるためとして2月半ばに販売を禁止し、この薬は姿を消してしまった。COVID-19に対するアムチの対応 ダラムサラのチベット医学組織は、2020年6月COVID-19の予防や改善が期待できるチベット薬として36種類の丸薬、5種類の煎じ薬、3種の高貴薬をホームページ上に公開した。例えば、そこに含まれるミロバランなど15種類の生薬を調合したタズィ・マルポという丸薬は、伝染病や肺の炎症などの治療や解熱作用をもつ薬である。そのほか、COVID-19患者の飲食療法として、小麦や大麦、オーツ麦などの粥に一匙のバターオイルと甘味づけに一片の甘草を入れた食事や、羊肉または羊の骨のスープに少量のシナモンとクミンシードを入れた食事、葉物野菜にニンニクやタマネギ、クミンシード、キャラウェイを混ぜて調理した食事、ウコンと蜂蜜を混ぜた牛乳を飲むことなど14項目が示された。パンデミックのなか、アムチたちは様々な薬や飲食療法を通して感染症の対応に尽力している。 チベット医学は、チベットやヒマーラヤのチベット文化圏の伝統医療で、専門組織や個人によって実践されてきた。自然の生薬が含まれるチベット薬にはいろいろなバリエーションがあり、感染症の対応にも用いられている。長岡 慶 ながおか けい / 日本学術振興会特別研究員CPD(関西大学)、AA研共同研究員チベット医学と感染症様々なチベット薬と飲食療法感染症対策特別編フィールドで見つけました連載企画3
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