FIELD PLUS No.24
8/36

6FIELDPLUS 2020 07 no.24いない。その確信の下、幾つかの地区を回ってレノンウォールや落書きの類いを撮影した(写真1、2)。現場で見たのは、これまで粤語の書記言語化を支えてきた粤語特有の字体とは異質な字体の進化であった。漢語方言字と広東字 漢語(いわゆる中国語)に属する地理的変種が書き記される機会は多くはない。だが民間では書き記すに当たって、中国の官製字典に収録されていない新造字等を用いることがある。中国では「漢語方言字」と総称され、中国東南部以外の方言や権威的でない方言にも見られることがある。だが、字数の多さと知名度で群を抜いているのは粤語であり、粤語に特有な字体は「広東字」とも呼ばれてきた。広東字は、中華人民共和国で共通語「普通話」の普及が進むに伴い、広東では使われる機会が減っていったが、英領であった香港では粤語の書記言語化の伸張に伴い、着実に市民の認知を得ていった。ところが、新造字である広東字以外にも、社会で慣用されている俗字や異体字など、香港に特有な字体は少なくなかっ文字表記を問うフィールドワーク 「野外調査」という語からイメージされるところのフィールドワークに筆者が従事したのは、1990年代と2010年前後、そしてここ数年間に過ぎない。調査対象は東アジア大陸部の農村で話されている地域言語である。だが、それとは別のタイプの調査活動を1998年以来毎年欠かさず行ってきた。調査地は世界有数の大都市香港である。調査対象は音声言語ではなく、書記言語(文字言語)である。 筆者が香港に在住していた1990年代中後期は、本来音声言語として存在していた粤えつ語ご(広東語)が書かれる、すなわち文字で記されるという現象が伸張した時期であり、街頭広告はその勢いが顕著な媒体の一つであった。それ以来、粤語で書かれた街頭広告を撮影するための渡航を20年以上続けてきたのだが、2019年は別のものを探すことにした。逃亡犯条例改正案に端を発した一連の動乱の最中に現れた、市民による手書きの政治的メッセージである。そこには音声言語の書記言語化という香港ならではの興味深い現象が顕現しているに違た。そこで、1999年に香港政庁はそれら特有な字体をコンピューター・ネットワーク上で表示するための『香港增補字符集』を制定した。登録された4,702の文字・符号には「鰂4魚涌」、「深水埗4」、「赤鱲4角」といった香港の地名に不可欠な字も含まれている。ここにおいて、香港に特有な字体のコンピューター・ネットワークに於ける規格化が進み、登録された字はIT用語で「香港字」と総称され、都市空間に溢れるようになった。IT用語としての香港字と文字学・文字論用語としての広東字とは同義ではないが、広東字が現代では広東ではなく専ら香港で用いられている事実も相俟って、両者を混同する者は多い。インターネット時代のパラドックス 規範化を経た広東字「嘢」、「哋」、「嘅」、「攞」、「冇」などは街頭広告には欠かせない。だが、文字が手書きされる現場では、それと異なる字体に巡り会うことがある。「嘢」が「野」、「冇」が「無」で手書きされる如く。そこには広東字が公教育の教育内容に含まれていないことによる脆さが露呈している。漢字という文字が持つ特徴の一つとして、字体の新造や変形が意外と柔軟であることを挙げてよいのではないか。新造や変形は字が書き記される現場で起きるのであり、書き手の意識と無関係ではない。フィールドワークを通してその動態に迫りたい。吉川雅之 よしかわ まさゆき / 東京大学、AA研共同研究員字体の新造と変形の最前線激動の香港に見る写真1 路肩のコンクリート製防護柵に記された政治的メッセージ「中国は強国だと?尖閣諸島を取り返してから言ってもらおうか!」(香港島湾ワンチャイ仔)。「攞」が広東字である。写真2 飲食店に設けられたレノンウォール(香港島)。指でさしている「嘢」が広東字である。香港島湾仔西湾河尖沙咀旺角九龍*写真はすべて筆者撮影。

元のページ  ../index.html#8

このブックを見る