5FIELDPLUS 2020 07 no.24大きな被害を受けた宮城の閖上ではその門構えに略字が見られる。身近な字は多少崩しても読めるため、略すと労力の節約になる。少し離れた石巻の閖谷地と閖前では、眼前に広がる田は実は閖上と同様かつて海で、近くの川は氾濫したとの伝承を方言混じりで語ってもらった。肉筆には新たな謎も立ち現れる。地元の高齢者たちが農作業の傍ら、泥だらけの手で持った紙に書いてくれた「閖」は、少し改まったためにきちんとした「門構え」であった(普段は略して書くと、場面による変異も聞けた)。しかし右下が「風」の右下のように跳ね上がっていることに驚いた(⑤)。後日、近隣で追跡調査を行ったが、似た形が老年層に1例現れただけで、あの跳ね方がなぜ現れたのかは謎として残されている。 北海道から沖縄(⑥)、さらに海外でも、文字コードが与えられたフォントに押されながらも、手書き文字の地域差はまだ健在である。 現地での文字調査の方法は、自然な使用実態を引き出すという目的から、一般的な方言調査と共通する方法が多いが、それほど計画性をもたずとも言語景観を観察し、住民に筆記を依頼すれば、生の、あるいは改まった使用の姿を得ることができる。そこに暮らす人に、その文字は標準ではないなどと言って存在価値を否定したならば、その日から方言漢字は衰微しかねない。 研究職にない在野の漢字好きの人たちまでこうした地道な調査を実施してツイッターなどで報告してくれるようになった。こうした実績の積み重ねを通じて「社会文字学」とでもいうべき学問分野が成り立ち、さらに緻密な分布を分析する「文字地理学」も構築されていく可能性が出てきた。の文字遣いと意識が聴取できるのだ。 集中講義で熊本に行った際には、先生方が講義の合間を縫って車を出してくれて皆で「褜いや川がわ」を遡った。この川の名は出産時の胎盤(胞衣、えな)を流す風習を伝えるものであろうが、人通りもなく地名の説明板も見つからなかった。言語学では「消滅危機言語」が注目を集めているが、文字表記の記録も実は「緊急性」が高いのだ。文字調査の作法 続けて、調査の際に気をつけていることについて少し詳しく述べておこう。 「海老」が一般的な表記として広まったにもかかわらず、江戸期に東日本で流行した「蛯」を今でもよく使うのが北海道である(③)。最初に気づいたのは留学生たちを引率した室蘭への出張の時で、偶然に目に入ったメニューだった。対象は身近にある。 どのように使っているのか知りたい場合は、「エビってどう書くんでしたっけ?」と笑ってとぼけて聞いてみると皆教えてくれる。札幌市内の市場では、値札に「蛯」と書いていたおばさんが当たり前だよと言わんばかりに「虫に老って書く」と笑って教えてくれた。その場に身を置いて対面することで聞き出せるのである。 住民に対して同行者がつい「調査」に来ましたと説明してしまうことが時々ある。この単語を聞くと税務調査のようなイメージがよぎるのか、誰しも漢字能力に一抹のコンプレックスがあるせいか、皆たじろいで身構えてしまう。相手が引いて黙ってしまうので、慌てて横から「ちょっと調べておりまして」などと柔らかく言い換えるとやっと打ち解けて対応してくれるようになる。 ポケットから出したシワのできたメモ用紙とボールペンを手渡せば、地元の人は気軽に字を書いてくれる。平安時代の津波の災害を伝える可能性を、字書の記述と「門」に「水」が入る構成から読み取れる「閖ゆり」という字がある(④)。伊達の殿様が作ったというのどかな話は近代のものだ。3.11でおわりに たった1字のために何時間もかけて何百キロも移動する。でも地元の古地図や石碑、看板、貼り紙、手紙やメモ、そして住民の話からは、別の珍しい字や変わった使い方も新たに学ぶことができる。社会言語学では統計を利用した景観調査が流行っているが、それだけでは惜しい。そこに住む人が本当に使っている文字をことばとともに一つ一つ掬い取りたい。 方言漢字が標準的な漢字に置き換わっていく「共通字化」は全国で進んでいる。だからこそケータイやカメラを片手にJIS漢字の珍しい字(僻字)や幽霊文字を含めた方言漢字が使われている地を巡る活動を応援したい。埼玉の稀少地名「垳がけ」を守ることから始まった「方言漢字サミット」や、ツイッターなどで、志と眼をもつ人たちによる方言漢字の紹介と報告に触れるたびに、まだ見ぬ文字の奥行きと広さを実感する。地域の個性に彩られた多様で豊かな文字の生き生きとした世界を知りたくなる人がさらに増えることを願いつつ、今日も歩き、暮らしの中の文字にレンズを向ける。 ③「蛯」。札幌市内の市場で。2006年。⑤閖谷地で生まれ育った人たちが書いた門構えの右下を右上へ跳ね上げる「閖」。2015年。⑥那覇の「覇」の略字。2007年。④3.11の被災前だった2003年の看板に書かれた「閖」(「衛」が略字になっているところも興味をそそる)。
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