FIELD PLUS No.24
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12FIELDPLUS 2020 07 no.24インド洋天気晴朗なれどいまだ遠しブルトンの言う「偶然の必然」のように、いくつもの糸が絡まり合いながら、マダガスカルに降り立ちました。マダガスカル人の祖先もきっと海の彼方に何かを夢見、携えて来たのでしょう。「遠い南方」と「じんるいがく」 「遠い南方へ行きたい!」この想いが、私を社会人類学とマダガスカルへと誘った根っこかもしれません。その時の「遠い南方」とは、あるいは日本から対角線上の遥かな熱帯の地であったり、あるいは自分が未だ知らない世界のことであったりしました。「遠い南方」を最初に見せてくれた出来事は、暑い夏と熱帯魚を飼う事が大好きな小学生が目にした、マダガスカル島だけに生息する葉肉がなく葉脈だけの水草レース・リーフとその探訪記事でした。中学と高校では生物部と太陽観測部を部活動に選んだ結果、水生昆虫の研究を通して可児藤吉と今西錦司の生態学を知り、南十字星とマゼラン雲を見る事のできる遥かな南天に想いを馳せました。そのため、高校二年生の頃から、生態学か天文学を学びたいと考えるようになりましたが、生態学は周りから「将来喰えないぞ」と止められ、天文学は数学と物理の苦手な学生にとって論外の代物でした。そのような中、大学受験の前年、レヴィ=ストロースの『構造人類学』の邦訳が1972年の5月に、長島信弘の『テソ民族誌』が同じ年の11月に出版され、すぐに斜め読みしました。にわかに、「じんるいがく」なる耳新しい研究分野が、「遠い南方へ行く」事を実現してくれそうに思えてきました。周囲の人間は内容も良くわからずに「じんるいがく」にはゴーサインを出してくれましたし、数学と物理も「じんるいがく」を学ぶ上での必須教科ではなさそうでした。まあ、本人も「じんるいがく」の中身を理解していたわけではさらさらなく、何やら新しげで何を調べても良い間口の広そうな学問の匂いが蠱惑。海の彼方に夢見たもの 入学した先の大学では「人類学調査実習」が必修科目だったため、1974年に本土復帰後間もない沖縄の石垣島で、10日間ばかりの集団調査を経験しました。東京生まれ、東京育ちの人間にとってこれが生まれて初めての「海外」であり、「遠い南方へ行きたい!」が「遠い南の島で調査をしたい!」へと数歩具体化された瞬間でした。三年時に受講したオセアニアの文化と社会をめぐる授業において、「マダガスカル島の人びとの言葉は、東南アジアや太平洋の人びとと同じオーストロネシア語族に入ります」と教えられ、「遥かなインド洋をわざわざ渡っていった人びと」への好奇心が頭から離れなくなりました。「地域集団が親族化する現象」を卒論の主題に選択し、内婚クランを指すdemeをキーワードに用いたマダガスカルを舞台とするM.ブロックの民族誌Placing the Dead(1971)を読み終えた時、「遠い南の島」が俄然「マダガスカル」と符合する事となりました。 「マダガスカルで調査したい」と面接で口走り入れてもらった大学院の指導教員が、まさかの『テソ民族誌』の著者。「俺は、就職と調査資金の面倒はみないからな」と入学初日に宣告され、「自分で探します」と言ってはみたものの、博士後期課程に進学後、マダガスカルへの航空運賃をいざ調べてみれば、パリ経由のノーマルチケット代70数万円也。大学院生のアルバイトでどうにかなる金額を凌駕していました。そこで、焼津港や清水港で、アフリカ方面に出漁する漁船を探したものの、便宜乗船の話は歯牙にもかけられず。最後にマダガスカル北西部の港町マジュンガにエビ獲り漁船の基地を設けていた大洋漁業(現マルハニチロ)と、つてをたより直談判しました。奇跡的にこの話は実現し、獲れたエビを運ぶ900トンに満たない冷凍船56日間の旅の末、1981年の12月17日、マジュンガの町に降り立ちました。穏やかなアジアの多島海と島影も少なく波涛うねるインド洋を肌で感じ、この8000キロ有余を二千年近く前に航海したマダガスカル人の祖先が、その時夢見ていたものに思いを馳せずにはいられませんでした。 深澤秀夫ふかざわ ひでお / AA研フェローマジュンガ港に停泊するインド洋交易に使われてきたダウ船(1983年)。冷凍カツオを積み込むために停泊したモルディブ南部環礁で見かけた漁船(1981年)。マダガスカルに行く際に乗船した冷凍運搬船。波穏やかなマラッカ海峡から波濤うねるインド洋に入る スマトラ島北端にあるブンタ島を望む。*写真はすべて筆者撮影。マダガスカルアフリカマジュンガ

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