FIELD PLUS No.24
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8FIELDPLUS 2020 07 no.24 甲骨文字は金属製の刃物で刻まれているが、甲骨は硬いため曲線を彫るのが難しく、文字は直線的になることが多い。また、筆で書く文字のように「はらい」や「はね」は発生しない。結果として、甲骨文字を素直に書道表現すると、すべて力強い直線で、しかも画の終わりは必ず「とめ」になるという、ゴツゴツした形状になる。 次に挙げるものは、甲骨文字の「子」と、それを書道表現したものである。左が甲骨文字の拓たく本ほん(魚拓のように写し取ったもので彫った部分が白く浮き出る)であり、直線で構成された状態になっている(右端の線は段落分けの記号)。右はこれを書道表現したものであり、自動的に力強い直線となり、かつ「とめ」だけになる(協力:甲骨文・金文書家 安あん東どう麟りん。以下も同じ)。殷代の文字資料の多様性 ところで、殷代の文字資料が甲骨文字だけかというと、実はそうではない。殷王朝があった黄河流域は、繊維質のものが遺物として残りにくい気候条件になっている。そのため、竹の札や絹の布などに書かれた文字は腐食によって媒体ごと失われてしまい、甲羅や骨のように硬い材質だけが残ることになる。つまり、結果として甲骨文字が殷代の資料として有名になったが、甲骨文字だけが殷代に使われた文字というわけではないのである。 実際に、ごく少数であるが、玉(貴石)や石、あるいは骨に書かれた文字が殷代の遺跡から発見されている。それらの文字は筆で書かれており、「はね」は出現していないが、「はらい」に近い表現は見られる。ちな古代文字と現代社会 筆者の専門は甲骨文字など中国古代の文字であり、普段は歴史の研究や文字の研究に携わっている。しかし、甲骨文字の研究は過去の社会という枠組みだけにとどまるものではなく、現代社会にも複数の分野で関係している。 そのひとつは漢字教育である。甲骨文字などは漢字の古い形であるから、その成り立ちを知ることは、現代の漢字の構造を知ることにもなる。例えば、「枝は木に関係する文字で、技は手(扌)に関係する文字」や、「貸たいは代たいが発音を表し、貨かは化かが発音を表す」のように、成り立ちが分かれば、よく似た形の漢字でも間違いが少なくなる。 そして、書道も甲骨文字との関係が深い分野である。書道は楷かい書しよや行ぎよう書しよ・草そう書しよだけではなく、漢字の古い形も対象としている。そして、秦しん代(紀元前3世紀)の篆てん書しよや西せい周しゆう代(紀元前11~前8世紀)の金きん文ぶんなどとともに、最古の漢字資料である殷いん代後期(紀元前13~前11世紀)の甲骨文字も、書道において表現されるのである(秦代に制定された篆書は、正確には小しよう篆てんと呼ばれる。また甲骨文字は、甲こう骨こつ文ぶんや卜ぼく辞じとも言う)。甲骨文字の書道表現 甲骨文字は、今から3000年以上も前に殷王朝で作られた文字資料である。当時は、亀の甲羅や牛の骨を使った占いがおこなわれており、使った甲羅や骨に占いの内容を刻み込んだのが甲骨文字である。みに、甲骨文字にも筆を表した象形文字の「聿いつ」や竹の札の形である「冊さく」が見られる。 次に挙げるものは、殷代に筆で書かれた「子」と、それを書道表現したものである。左は骨に筆で書かれた文字であるが、下部には「はらい」に近い筆法が見られ、彫刻された甲骨文字とは大きく異なっている。また、右はそれを書道表現したものであるが、先に挙げたものとは違い、やわらかい筆づかいになっている。芸術としての書道の可能性と枠組み 筆者は研究者なので、その立場からは、「実際にあるもの」と「ありえたもの」「あったはずのもの」を区別しなければならない。研究者は現実に発見された資料の内部で、できるだけのことを研究するのである。 一方、書道は芸術であるから、必ずしも研究の枠組みに収まらなくてもよい。わずかに残された筆跡から、殷代の筆法を復元し、そこからさらに「ありえた文字表現」や「あったはずの字形」を復元することも可能なのである。 しかし、現在の書道界では、「あるもの」に制約されてしまい、「ありえたもの」を考えない傾向が強いように感じられる。芸術としての書道が現実にとらわれてしまっては、世界が広がらない。多様な表現を模索することで、可能性を広げることが重要であろう。 ただし、無制限の表現が可能かというと、それも違うと思う。書道は、漢字(文字)を用いた芸術であるから、「文字」という枠組みを外れてしまっては「書道」ではなくなってしまう。 例に挙げた「子」で言えば、子供を表した象形文字であり、上部は相対的に大きな子供の頭を表現しており、下部では二本の足を一本にすることで、まだ歩行がおぼつかない様子を表現している。そして横線は子供の両手である。もし横線を二本にしたり、縦線を二本にしたりすれば、それは「子供を表した象形」ではなくなってしまう。 このように、書道における古代文字の表現は、文字として「あるもの」と「ありえないもの」の間にある「ありえたもの」に展開していくことが必要であると私は考える。 甲骨文字研究と現代書道甲こう骨こつ文も字じの研究は、過去の歴史研究や文字研究にとどまらず、現代の書道にも関係している。しかし、実際の書道の現場では、発見された資料があまり活用されておらず、結果として多様性が乏しくなっている。落合淳思 おちあい あつし / 立命館大学、AA研共同研究員中京大学で開催された講演会で筆による古代文字表現を実践した。書道部員や指導教員とともに記念撮影(中央が筆者)。

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