FIELD PLUS No.23
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7FIELDPLUS 2020 01 no.23された様子がうかがえ、オスマン朝時代以降はそれに加え街区の入り口や内部にまでその設置場所が拡大しており、数だけではなく設置場所からもサビール・クッターブが人々の生活により密着していったことがうかがえる。しかし、サビール・クッターブの建設が、この時期に急増した理由には不明な点が多い。マムルーク朝時代までに見られるモスクや水道橋などの巨大建築物に比べると建設、維持に費用がかからない一方で、建設をおこなった有力者たちは人々から支持や感謝、名誉を得られることる。サビールに類する給水施設や、教育施設のクッターブは前近代のイスラーム社会にそれぞれ広く見られるが、複合施設のサビール・クッターブはエジプトが発祥と見られる。 「サビール」とはアラビア語で「道」を意味する。「サビール・アッラー(神の道)」は神の道にいたる努力(ジハード)が含意され、そのためイスラームの宗教施設への寄進文書には「サビール」または「サビール・アッラー」という語が見られる。「サビール」が特に給水施設を指す用語としていつごろ定着したかは今のところ定かではないが、ナースィル・ムハンマドが父カラーウーン(在位1279–90年)の建てたマドラサと病院の複合施設(マンスール病院)にサビールの附設を命じたのが最初の例とされる。また、マムルーク朝後期のスルターン・カーイトバーイ(在位1468–95年)が建設したサビール・クッターブが単独型の先駆けになったと見られている。サビール・クッターブの位置情報からみるカイロの水インフラ整備 14~16世紀初頭のマムルーク朝時代には、モスクやマドラサの貯水槽(サフリージュ)は広く見られるが、サビール・クッターブの数はそれに比べ多くはない。一方、17~18世紀のオスマン朝時代にはサビール・クッターブの建設は急増し、近代化がはじまる19世紀まで建設がつづいた。エジプト考古庁制作の『カイロ・イスラーム遺跡地図』に登録されているサビール・クッターブや貯水槽の位置情報をみると、マムルーク時代には主要な街路ぞいに設置も理由の一つなのかもしれない。 また、このような公共の水インフラは、エジプトやカイロに限られたものではなく、中東地域に広く見られる。オスマン朝下のイスタンブルやダマスカスなどの諸都市や、その他の地域でも(イランのサッカー・ハーネ、モロッコのシカーヤなど)多くの都市で公共の給水施設、街角の共有の水場として人々の暮らしを支えていたのである。いつかこれらの給水施設の比較も試みたいと思う。 Nicholas Warne氏作成の遺跡地図上にエジプト考古庁に登録されているサビール・クッターブや貯水槽の位置情報を掲載。 14–16世紀 17–19世紀左: 14–16世紀に建造された現存のサビール・クッターブと貯水槽(二重丸:カーイトバーイのサビール・クッターブの位置)。右: 17–19世紀に建造された現存のサビール・クッターブと貯水槽(二重丸:アブドゥル・ラフマーン・カトフダーのサビール・クッターブの位置)。アブドゥル・ラフマーン・カトフダーのサビール・クッターブ。(筆者撮影)スルターン・カーイトバーイのサビール・クッターブ。内部の見学ができる。(筆者撮影)

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