FIELD PLUS No.23
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5FIELDPLUS 2020 01 no.23地図(地図4)をみると、ファイユーム盆地の「中心地域」には多くの貯水地(ハッザーン)やダム(サッド)という単語がみられるのに対して、「周辺地域」にはハウド、つまりベイスンの言葉が散見される程度である。 つまり、19世紀の前半においても、ファイユーム盆地の「中心地域」では貯水池とダムを結び目とした運河網によって灌漑がなされていたのに対して、「周辺地域」では伝統的なベイスン灌漑によって灌漑がなされていた。 写真1と写真2は、ムハンマド・アリーによって19世紀前半に建設された、ファイユーム盆地北東にあるターミーヤ貯水池から水を耕地に分配するダムの写真である。近代におけるファイユーム盆地では、デルタ中心部から北東に向かって農地開発が進んだが、この二つの写真は、その開発が標高差を利用した運河の建設によってなされたことを物語っている。 ファイユーム盆地は、ナイルの水に全面的に依存せざるをえないというエジプト農業に固有な制約を免れることはできなかった。つまり、水源がユーセフ運河に限られ、ナイル氾濫時のラーフーン水門での水位が、その年のファイユーム盆地での耕地面積と作物の生産高を決定した。漑が主流であったなかで、ファイユーム盆地だけは、ほぼ100%の耕地が通年灌漑によって耕作されていた。地図4、地図5は、19世紀前半のファイユーム盆地と20世紀中頃の下エジプト地方の灌漑図である。ともに、通年灌漑のための運河網が張り巡らされている。この二つの地図から、ファイユーム盆地と下エジプト地方の運河網の形が似ていることが分かるが、運河網が整備された時代は異なり、後者が整備されたのは近代以降である。 それでは、ファイユーム盆地の運河網はいつ整備されたのであろうか。通説では、ヘレニズムの古典古代であるが、もしそうであるのならば通年灌漑も古典古代に導入されたことになる。つまり、下エジプト地方の運河の歴史はファイユーム盆地の歴史をなぞっていることになる。「エジプトの歴史の縮図」としてのファイユーム盆地 ファイユーム盆地が歴史の早い時期に通年灌漑を導入した理由は、地形と係わっていたであろう。近代において下エジプト地方に通年灌漑を導入したのはムハンマド・アリー(統治1805–48年)であるが、彼が行った灌漑関係公共事業の立地を示す この耕地拡大の限界を克服するためには、灌漑運河の整備や複数の作付けの普及などによって、単位面積当たりの農業生産高の上昇をはからねばならない。これこそ、19世紀以降の近代において、ナイル峡谷と下エジプト地方の農業経済が歩んだ道である。それは、エジプトの灌漑史において、豊かな「ナイルの賜物」をもたらしたベイスン灌漑から近代的な農法によって農業生産性を高めようとする通年灌漑への移行であった。しかしその移行によって生産性は高まったものの、発展のピークを過ぎると、資源的な制約から増加する人口を支えられなくなった。その結果が現代の「貧しい」エジプト農村社会である。 ファイユーム盆地は下エジプト地方に比べると小規模なデルタ地形であること、古くから水門によって水の流れが管理されていたことから、この歩みをきわめて早い時代に開始した。このことは、ファイユーム盆地が早くから開発され、近代のはるか以前に発展のピークを迎えたことを意味する。平坦な下エジプト地方は、通年灌漑への移行に時間がかかった。こう考えると、ナイル峡谷と下エジプト地方は、ファイユーム盆地の歴史を遅れて歩んだことになる。 地図2 ファイユーム盆地の衛星画像* 薄茶色の部分が砂漠。黒く囲んだのがカールーン湖。 〇はラーフーン水門。佐藤将(横浜市立大・院)作成。地図3 下エジプト地方の衛星画像* 砂漠(薄茶色)と地中海に囲まれた下エジプト地方(緑色)。 黒く囲んだのが下エジプト地方の灌漑水が流れ込む湖群。〇はデルタ・バラージュ。佐藤将(横浜市立大・院)作成。地図4 19世紀前半ファイユーム盆地の灌漑図* 出典:ムハンマド・アリー地図。〇はラーフーン水門。地図5 20世紀中頃における下エジプト地方の灌漑図* 出典:1959年灌漑地図。〇はデルタ・バラージュ。写真1 20世紀前半のターミーヤ・ダム(下から撮影)* 出典:‘Alī Shāfi‘ī, A‘māl al-manāfi‘ al-‘āmma al-kubrā fī ‘ahd Muḥammad ‘Alī al-Kabīr, Dār al-Ma‘ārif, Cairo, 1950.写真2 現在のターミーヤ・ダム(上から撮影)* 2019年4月筆者撮影。現在、貯水池は消滅し、 ダムだけが残っている。Source: Esri, DigitalGlobe, GeoEye, Earthstar Geographics, CNES/Airbus DS, USDA, USGS, AeroGRID, IGN, and the GIS User CommunitySource: Esri, DigitalGlobe, GeoEye, Earthstar Geographics, CNES/Airbus DS, USDA, USGS, AeroGRID, IGN, and the GIS User Community

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