4FIELDPLUS 2020 01 no.23を求めるためには、何千年にもわたる歴史事象をつなぎ合わせなくてはならない。これは無謀な試みである。しかし、砂漠と海に囲まれ、ナイルの水という限られた資源環境のもとで歴史を歩んできたエジプトでなら、それができるかもしれない。そこで、眼をつけたのが、19世紀以降の近代における灌漑方式の変化である。 灌漑方式の変化とは、年一回のナイルの氾濫水を耕地の区画(アラビア語でハウド、英語でベイスン)に引き入れ、耕作を行うベイスン灌漑から、氾濫に関係なく、一年を通して耕地にナイルの水を引き入れ、耕作を行う通年灌漑への移行である。それは、ナイルの水位を管理することと、ナイルの水を耕地に分配するための運河網を建設することによって可能となった。 この灌漑方式の移行はエジプト社会に後戻りできない大きな変容をもたらした。そこで、この移行過程をあきらかにすることによって、前近代の繁栄から近現代の貧しさへの移行を跡づけることはできないか。これが、このエッセイの問題関心である。その際、注目したのが地形であった。何千年もの歴史において、人びとの営みは次第に変化していった。これに対して、地形はファイユーム盆地の「前近代」と「近代」 古代文明発祥の地の一つであるエジプトに、ファイユームという盆地がある。この地は砂漠に囲まれた緑地、つまりオアシスで、首都カイロからナイルの上流に向かって南へ90キロメートルに位置している。長い歴史を持つエジプトでも、ひときわ長い歴史を持ち、興味深い場所である。 ファイユーム盆地は西部(リビア)砂漠に位置するダハラオアシスとともに、気候変動によって移住を余儀なくされたアフリカ中部の人びとが、ナイル河畔に居つく前に、まず移り住んだ場所であり、いわばエジプト社会のルーツであるという。また、ヘレニズム期(前323–前30年)とローマ期(前30–後395年)の古典古代では、エジプトのみならず地中海世界における穀倉地として繁栄したことが分かっている。この繁栄は、ビザンツ期(395–639年)、さらにはイスラーム期(639年–)にも続いた。ところが、近代になってその繁栄は失われ、現代のファイユーム盆地は、普通の「貧しい」地方である。 それでは、なぜファイユーム盆地は前近代の繁栄を失い、現在のような貧しい地域となってしまったのだろうか。この答え大きくは変わらず、人びとの営みを条件づけてきた。歴史における所与としての地形 それでは、ファイユーム盆地の地形とは、どのようなものであろうか。それは、オアシスとしての地形とデルタとしての地形の二つに集約される。 地図1はナポレオン地図(19世紀初頭にナポレオンのエジプト占領時に作成された)でのファイユーム盆地である。ここでは上記の通りファイユーム盆地がオアシスであり、泉や井戸もあったことが示されている。しかし、土地耕作の水源はほぼナイルから引かれたユーセフ運河の水であった。つまり河川(から引いた運河)を水源とするオアシスということになる。 河川によって運ばれた土砂が堆積することにより形成されるのが、デルタである。ファイユーム盆地はカイロの北の下エジプト地方と同じくデルタ地形である。地図2はファイユーム盆地、地図3は下エジプト地方の衛星画像であり、両者を比べるとその類似性が分かる。耕地への取水口、つまりデルタの「頂点」は、ファイユーム盆地の場合、ユーセフ運河のラーフーン水門(地図4を参照)であり、下エジプト地方の場合、ナイルがロゼッタ支流とダミエッタ支流の二つに分岐する場所にあるデルタ・バラージュ(水門、地図5を参照)である。水は標高に沿って、上流の「頂点」から下流へ、土砂を扇状に堆積させながら流れ、最後は湖(ファイユーム盆地の場合はカールーン湖、下エジプト地方の場合はブルルス湖)に流れこんでいる。ファイユーム盆地の発展径路 ファイユーム盆地は歴史的にみて、ほかのエジプト地方とは異なる灌漑環境に置かれていた。20世紀の初頭において、カイロから南の上エジプト地方ではベイスン灌地形を始めとした地理環境は、人びとの営みの尺度でみれば、歴史のなかで大きくは変化しない。そのため、社会の変化を研究対象としてきた歴史学では、地理情報を資料として使うことは少なかった。しかし、それは、長い歴史のなかで人びとの生活の営みをイメージさせる貴重な媒体である。加藤 博 かとう ひろし / 一橋大学名誉教授地図1 ナポレオン地図でのファイユーム盆地Ⓒ2000 by Cartography Associatesファイユーム盆地はエジプトの歴史の縮図ナイルデルタダミエッタエジプトロゼッタファイユーム盆地カイロ
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