23FIELDPLUS 2020 01 no.23旅と本と食 一昔前、まだスマートフォンやタブレットもなく、国際線の機内では各座席にディスプレイもなく、機内Wi-Fiもない時代。観光でも調査でも、本は旅に欠かせないマストアイテムだった。今では荷物軽減のために旅先では iPadで読書をすることが多くなったが、それでもこれだけはあえてゆっくりと頁をめくりながら味わい直したいと思う本が幾冊かある。そのなかの1冊が開高健の小説『新しい天体』で、初版は1974年(潮出版社)。これまでに2度文庫本として再版されている。 本書は「新しい天体」を求める主人公(実際は食通としても著名な開高自身)の食べ歩きがストーリーの軸となっている。この作品の書名は、ブリア=サヴァラン『美味礼讃』の一節、「新しい御馳走の発見は人類の幸福にとって天体の発見以上のものである」に由来する。主人公である大蔵省の一役人は、余った予算を食いつぶすために「景気調査官」となり、景気が食にどのように影響を与えているかを調査するという名目で日本全国の美食を食べ歩く。たこ焼きやどて焼きといった大衆料理から一流料亭や高級食材へと食べ進むなかで、主人公は完璧さを求めすぎた美食には虚無が漂うことに気づいてしまう。そして最後に、その虚無を振り払って新しい天体の発見を超える至純至高の御馳走に辿りつくのである。 本書はただの食紀行文ではなく、上司に言われるがままに潤沢な取材費(税金)を浪費して御馳走を食べ続けるという官僚主義に対する諷刺も込められており、また随所に艶笑小咄・食談・文学論など開高ならではの話題にも満ち溢れている。何よりの魅力は、巻末の秋山駿の解説(1976年新潮文庫版)にもあるように、一瞬にして舌から消え去ろうとする味覚を、繊細かつ鋭敏に記述しようとするその文体であろう。美味に出会って「筆舌に尽くしがたい」「言語に絶する」と白旗を掲げるのを潔しとしなかった開高健。その溢れんばかりの語彙で表される美味美食の数々は、実際に食さずともその味を十分に堪能することができる。新しい天体を探しに 異国を旅する愉しみの1つは、その地ならではの珍しい食材や今までに体験していない料理に出会うことだろう。前近代の中央アジア史を専門とする私のフィールドは、井上靖の小説で有名な敦煌や東トルキスタン、いわゆるシルクロードのオアシス地域で、ホータンやクチャの羊・鶏料理、ウルムチやトゥルファンの蟠ばん桃とう、チャルクリクの砂すな棗なつめに深い思い出があり、私にとっての新しい天体といえる。そのため日本の美食を語る『新しい天体』の内容は私の研究に直接関係しないが、アジアの美食・旅行にまつわる開高作品となれば、『地球はグラスのふちを回る』『私の釣魚大全』『モンゴル大紀行』などがあるし、歴史上の中華料理についての蘊うん蓄ちくを披露する『最後の晩餐』のほうが私の領域にむしろ近い。 それでも『新しい天体』が私を惹きつけるのは、読むたびに味を表現する語彙の豊かさに驚かされ、絶妙な描写力に自身の味覚も研ぎ澄まされるような錯覚を覚えるからだ。味覚が変われば、一度口にしたことがあるものでもいっそう味わい深くなり、今までに遭遇したことのない新しい天体を発見したときの悦びが増す。さらには長い旅の途中で日本食や日本語に飢えたときに、本書の豊穣で繊細な言葉の数々は旅人の乾いた心を十分に潤してくれるだろう。 そう、この本はフィールドについて何かを感じ取るためのものではない。フィールドに持ち出して食前・食後に読んで欲しい。そういう1冊 なのだ。 赤木崇敏 あかぎ たかとし / 東京女子大学この本は私のフィールドとは直結しないが、長期で海外に行くときは必ず持っていきたい。そういう本だ。旅先で新しい御馳走に出会ったときの幸せを教えてくれるし、日本食と日本語に飢えたときにきっと心を満たしてくれるから。開高 健『新しい天体』かつては不老不死の仙果とも言われた蟠桃。日本の桃より平たく小ぶりだが、やや固めの果肉からはさわやかな甘みと高貴な香りが口中に広がる。まさに新しい天体だ。(ウルムチの市場にて、筆者撮影)焼きたての鶏を切り分けて、パン(ナン)の上に乗せてかぶりつく。素朴な一品だが、柔らかい肉からは香味豊かな肉汁が溢れ、鶏がこんなに美味しいものかと驚く。(ホータンにて、写真提供:奈良女子大学・河上麻由子氏)『新しい天体』開高 健 著(光文社文庫、2006年版)
元のページ ../index.html#25