8FIELDPLUS 2020 01 no.23外国の情報を吸収して海外に出ることを夢見ていた。 このように官民問わず数多くの日本人が、諸外国において活躍することを自らの理想として堰を切ったように海外に出始めた。イスラーム世界 明治時代前半の日本人は、己が範とする欧米諸国に対して強い憧憬の念を抱いていた。しかし多くの日本人はそれに満足することなくアジア、オセアニア、南アメリカ、アフリカの諸地域の諸情報を収集し、地理ばかりでなく、キリスト教世界さらにはイスラーム世界への関心を高め、実際に現地に赴いて活動し、交渉を始めていた。 当時のイスラーム世界の中核に位置していたオスマン帝国に対して、1873年にパリ滞在中の岩倉使節団から福地源一郎がイスタンブルの現地調査に派遣され、1881年に外務省の吉田正春と陸軍の古川宣誉らの使節団がイスタンブルにてスルタンのアブデュルハミト2世に日本人として初めて謁見するに至った。さらに1888年には皇族から小松宮彰仁親王・頼子妃両殿下がイ海外雄飛 1868年から始まった明治維新により日本の近代化に大きな成果がもたらされたことは有名である。その際に明治新政府は「文明開化」や「富国強兵」といった四字熟語の標語のもとに様々な政策を打ち出して、当時の国際社会のなかで日本という国家の礎を築きあげることに努力していた。 さてこうしたなかで今日では忘れ去られている「海外雄飛」という標語がある。幕末に開国した日本は明治新政府のもとで積極的に諸外国と交渉をもち、先進国と呼ばれた欧米列強とのあいだに結ばれた不平等条約の改正に尽力してきた。しかし政府や役人ばかりが外国に目を向けていたのではない。 洋式軍隊として急速に成長した陸海軍も政府とは別に海外情報の収集に努め、商人たちも渋沢栄一のように諸外国と商取引をすることを夢見ながら自らの事業に励んでいた。また多くの平民たちも義務教育化された学校での勉強ばかりでなく、『学問のすゝめ』(1872–76年)で一躍有名になる福澤諭吉の『世界国尽』(1869年)から諸スタンブルを訪問して厚遇を受けた。この件に付随して1889年にオスマン帝国は軍艦エルトゥールル号を日本へと派遣し、翌1890年に日本に到来した同号乗艦使節は皇居にて明治天皇との謁見を果たすものの、帰路に和歌山県近郊で座礁し約500名の死者を出した。しかしながら本件を契機に日本海軍が生存者をオスマン帝国に送り届け、自社の集めた義援金を携えた『時事新報』記者の野田正太郎がイスタンブルに約2年間駐在し、その野田の援助によって貿易を志す山田寅次郎がイスタンブルに居を構えるなどと、両国の関係は進展した。 山田が勤務した中村健次郎を店主とするイスタンブルの中村商店は、日露戦争後に山田・中村が帰国してからも第一次世界大戦まで存続し、その間に陸軍の福島安正、海軍の島村速雄、ジャーナリストの徳富蘇峰、建築学者の伊東忠太ら数多くの日本人訪問者のイスタンブル滞在に便宜を図ったほか、日露戦争に際しての情報収集に協力した。これらを契機に陸軍は正式な外交関係のなかったオスマン帝国の首都イスタンブルに駐在武官を置いて、さらなる情報収集に努めた。第一次世界大戦を契機に 日露戦争に辛勝した日本は自他ともに認めるように世界の強い関心・期待を集める存在となった。やがて勃発した第一次世界大戦では、連合国の一翼を担い、ついに英仏の要請で地中海のマルタ島を拠点として独の潜水艦攻撃対抗任務を帯びた第二特務艦隊を派遣した。これらの功績をもとに日本は戦後にイスラーム世界に積極的に進出していった。ポートサイード、イスタンブル、カイロ、アレキサンドリアに在外公館を開設し、その在外公館には有能な外交官たちと並んで陸軍・海軍の駐在武官たちが配されて情報収集にあたった。こうして在外公館は外交任務・軍事活動を行いなが近代日本のイスラーム世界進出イスラーム世界と日本との関係は石油輸入以外にはないと思っている人が多いが、しかし、明治維新以降、なかでも第一次世界大戦後に日本は広大なイスラーム世界へ積極的な進出を模索して活動していた。三沢伸生 みさわ のぶお / 東洋大学イスタンブル日本商品館(左側の建物、1929年)。『イスタンブル日本商品館館報』80号(1936年)。ポートサイードアレキサンドリアカイロイスタンブル黒海地中海エジプトトルコ
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