FIELD PLUS No.22
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7FIELDPLUS 2019 07 no.22に連行しないように約束をとりつけたという。アルファキーは、敵とも味方とも知れぬ外国人たちから住民を守るための仲介役となったのである。 イタリア統治からエチオピアが解放された後、アルファキーのもとには以前に増して大勢の訪問客が押し寄せるようになった。イタリア統治期に道路網が整備され遠路の旅が容易になったこともこれに拍車をかけた。訪問客の増加は次第にアルファキーにとって負担となっていった。そこで、1942年、アルファキーは幹線道路が目の前を通るミンコのマサラ(邸宅)を離れ、道路から離れたところにあるクサイェ村に移住した。 ところがここでも訪問客、とりわけジンマ地方からの客の足は途絶えなかった。現在ジンマ県があるところには、1932年までジンマ王国があった。ギベ川源流域に成立したオロモの5つの王国のうちのひとつであったジンマ王国は、19世紀末にエチオピア帝国に組み込まれた。5つの王国とも19世紀にイスラームを受け入れ、それぞれの王たちは他地域出身のムスリムの商人・知識人・スーフィーの定住を促し、民衆へのイスラームの普及に取り組んでいた。20世紀初頭のジンマ地方では、スーフィー教団に入ることはムスリム知識人たちにとってある種の流行りとなっており、人々は神秘階梯の高い導師を求めていた。そのため西ウォレガ地方のアルファキーの噂を聞きつけたジンマの人々が、その教えにあが押し寄せるようになる。なかにはミンコ村周辺に住み着く者もいた。客の接待に食事は欠かせない。穀物は十分にあったようだが製粉が追いつかなかった。当時西ウォレガ地方の女性たちは、鞍形石臼とすり石を組み合わせた方法で製粉作業を行っていたが、これは非効率である上に重労働でもあった。水力を動力源とする製粉所建設のためには建築技師が必要であった。そこに現れたのが、ジンマ出身のハッジ・アダムという人物である。ハッジ・アダムは、ジンマで建築技師として製粉所建設の経験もあった。アルファキーの人柄に惹かれたハッジ・アダムは西ウォレガ地方への移住を決意し、終生アルファキーのもとで、製粉所建設のみならず土地財産の管理などの俗事の一切を取り仕切るようになったのである。イタリア植民地統治とジンマからの訪問客の増加 1936~41年の5年間、エチオピアはイタリアの植民地統治下に置かれた。ミンコに近いデンビドロ町にもイタリア人が飛行機でやってきた。飛行機など見たこともないオロモ農民たちが狼うろた狽えるなか、アルファキーは27機もの飛行機をまるで「羊」のごとく操りながら広場に着陸させたといわれている。アルファキーは、イタリア人たちを毎日のように「バナナと卵」で接待し、信頼をとりつけ、その見返りとしてムスリムの衣服を身に着けた者を強制労働ずかろうと大挙して押し寄せたことはとくに驚くにはあたらない。ジンマ地方ゲラへ、そしてヤア 1947年、アルファキーは、クサイェを離れ、首都アジスアベバに向かった。そこで、アルファキーは皇帝ハイレセラシエ1世に謁見し、皇帝自身から、ジンマ地方の西端にあるゲラにある土地を譲り受ける許可を得たとされる。アルファキーは、ジンマまで飛行機で向かい、そこから陸路でアファッロに向かった。ゲラは、豊かな森が生い茂る地域である。アファッロからさらに1時間ほど徒歩で山林を分け入ったところにアルファキーは居を構えた。その後、1951年にアルファキーはメッカ巡礼に旅立った。メッカで巡礼を終えたアルファキーは、一旦ボルノに帰郷したとされる。その1年後、ベニシャングルのアソサに姿を現したアルファキーは、西ウォレガ地方で待機していたハッジ・アダムらとともにヤアに向かった。 ヤアは周辺にマオやコマなどの民族が住む地域にあり、竹林が拡がっていた。アルファキーはそこをオロモの従者らとともに開拓し、ティジャーニーヤの共同体を設立した。だがその半年後、アルファキーは1953年4月2日、この世を去った。ヤアには、アルファキーの墓廟と従者・信者の村が建設され、毎年、エチオピア各地から大勢の信者が参詣に集まってくる。 1952年にアルファキーがアソサに戻ってきたという朗報をウォレガにもたらした人物。イタリア植民地支配から解放された時のアルファキー(前列右から3人目)。

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