FIELD PLUS No.22
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6FIELDPLUS 2019 07 no.22(観想修行)の最中に瞬間移動して他所に出現した、精霊に取り憑かれて病に陥った者を精霊を使って治療した、など様々なエピソードが記されている。 だがアルファキーは、決して熱心な宗教指導者ではなかったようだ。西ウォレガ地方のオロモ社会でムスリムは少数派であった。オロモは神(ワカ)を頂点とする在来の神霊観念をもっており、西ウォレガ地方では19世紀後半にキリスト教が、西洋のプロテスタント系のミッション活動によって広がり始めていた。またエチオピア帝国に編入されてからは教会をもつ町が設立され、キリスト教の普及が進んでいた。アルファキーは、西ウォレガ地方のキリストも罹患した。そのためザイナブはアルファキーのもとに四つん這いになって赦ゆるしを乞いにきた。アルファキーは彼女の行いを赦し、彼女の息子は病から快復した。ムスリムの薬師として:西ウォレガ地方にて ベニシャングルを離れたアルファキーは南に向かい、西ウォレガ地方に入った。そこは、クシ系のオロモ語を話すオロモ農耕民が住んでおり、エチオピア帝国編入後に中央から派遣されたキリスト教徒のアムハラ行政官から搾取を受けていた。このアムハラ行政官は1922年頃フィンチョという村に居を構えて、現地のオロモ農民に重労働や重税を課していたとされる。アルファキーはムスリムがほとんどいないこのフィンチョ村で、「薬師(アッバ・コリッチャ)」として知られるようになる。「薬師」としてのアルファキーの評判を耳にしたアムハラ行政官は、妻が病気であった時に彼を呼び寄せて治療にあたらせたのである。妻が快復したことを喜んだ行政官は、アルファキーに褒美を授けようとするが、アルファキーはそれを拒み、代わりに納税拒否で投獄されたオロモ農民の釈放を求めたとされる。アルファキーはこの行政官から功績を認められて、土地を授けられた。 アルファキーに与えられた土地は、今のデンビドロ市の近くのリパ村にあった。さらに1925年頃、アルファキーはリパから数キロ北にあるミンコ村に土地を寄進されて移住した。アルファキーは、ミンコ村に20年ほど滞在し、そこで多くの奇蹟を起こしたとされる。信者がアラビア語で記したアルファキーの伝記には、葉っぱを金銭に変えた、人やラバを蘇生させた、ハルワ教徒に対して寛容な態度で接したとされる。そして、ジンマ地方などムスリム地域からやってきた厳格なムスリム宗教指導者たちがオロモ住民に対してイスラームへの改宗を無理強いし、イスラームの教義(禁酒など)を厳格に適用しようとすると、それを戒めたとされる。アルファキーは、衣を持たない者には衣を与え、病をもつ者を健康にする、という仕方で住民の欠乏感を満たし、住民が進んでイスラームを受入れるように導いたのである。 1930年代前半になると、アルファキーの名声は、エチオピア西部一帯に広がり、国内各地、とりわけ19世紀以来イスラームが根付いていたジンマ地方からの訪問客アルファキーとイタリア軍将校。ミンコ村に残る、アルファキーの修行小屋。アルファキーがミンコの自宅の裏庭に自ら植えたカートの木。

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