5FIELDPLUS 2019 07 no.22から金の産地として知られ、17世紀後半から19世紀前半までは西方のセンナールを中心とするフンジュ・スルターン国の支配下にあった。フンジュの勢力下に置かれた王国のうち、ベニシャングル、ホモシャ、アコルディ、ファダスィの4つは、19世紀末にエチオピア帝国に組み込まれた。この4王国に共通する特徴として、19世紀にイスラームが導入された点と、世襲の王家にムスリムの「賢き異人」が婚入している点が挙げられる。西方から移住してきたこれら「賢き異人」は、地元の王からその識字能力と教養を認められて王の娘と結婚し、王国の統治にも寄与したとされる。この4王国は、19世紀末にエチオピア帝国に征服されたが、一部自治が認められていた。 当時ベニシャングルの王であったムハンマド・アブドゥッラフマーンは、アルファキーを知識人として評価し、自らの娘のひとりをその妻として与え、領土の支配をも託したという。アルファキーはベニシャングルに9年間滞在したとされるが、その間、一方で行政の仕事に携わりながら、他方スーフィーの知識人であり、聖者であるという意味合いが込められている。本稿では、アルファキー・アフマド・ウマルを、現地オロモの人々同様、「アルファキー」と呼ぶことにする。 アルファキーは、現在のナイジェリアの北東部に位置するボルノ出身で民族的にはハウサであったとされる。1891年に生まれ、19歳で両親を同時に失ったアルファキーは、西アフリカの慣例に従って陸路でメッカ巡礼に旅立った。メッカ巡礼を終えたアルファキーがスーダンに滞在していた時、エチオピアに行けという天命に導かれて、現在のエチオピア西部に位置するベニシャングルに入った。「賢き異人」として:ベニシャングルにて ベニシャングルは、現在スーダンとの国境沿いにあるベニシャングル・グムズ州の一部である。ベニシャングルには、ベルタ、マオ、コマ、グムズなどナイロ・サハラ系の諸言語を話す民族が住んでおり、古くでスーフィーとしての修行も怠らなかった。アルファキーにとって、この二つの営為は十分に両立可能であった。アルファキーは、可視の世界で世俗の仕事に勤いそしみながら、同時に数珠(マスバ)を繰りながら不可視の世界でも活動していたと言われる。 だがそのことが原因でアルファキーはムハンマドと仲違いしてしまう。アルファキーが食事時にも数珠を手放さないことに対してムハンマドが不平を漏らしたのである。アルファキーは立腹し、呪いの言葉を吐いた。その呪詛のためにベニシャングルは、エチオピア帝国による征服後も辛うじて守られていた自治権を失い、ムハンマドは当局に拘束されたと言われる。ムハンマドの妻ザイナブは、夫がアルファキーの呪詛の犠牲となって逮捕・拘留されたとして、アルファキーのもとに軍隊を差し向けたが、5ヶ月経っても彼を捕らえることができなかった。逆に、アルファキーは自らザイナブの家を訪れ、1週間以内に「兵」を送り込むと宣言した。その予言通り、ベニシャングルで天然痘が流行し、ザイナブの息子アフマド・アッティジャーニーとアルファキー・アフマド・ウマル。ある信者の家の壁に飾られた預言者ムハンマド(右上)とアフマド・ウマル(右下)の名前(イスラームでは偶像崇拝を禁じているので預言者の肖像画ではなく名前を飾る)。アルファキー・アフマド・ウマル。
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