4FIELDPLUS 2019 07 no.22 アフリカ大陸におけるイスラームの拡がりが、超自然的・呪術的な力をもつとされる聖者やスーフィー教団(イスラーム神秘主義教団)によるところが大きかったことはよく知られている。エチオピアでも、数多くのムスリム聖者が現れ、その人間的な魅力や、知識・修行に裏付けられた聖性によって民衆を救い導いたとされる。ムスリム聖者たちは、神の恩寵(バラカ)を民衆にもたらす存在として崇敬を集め、その死後も、信者は困った時にムスリム聖者の名を呼び、定期的にその墓廟を訪れた。アフリカのイスラーム史の大家であるトリミンガムは、その著書『エチオピアのイスラーム』(1952)において、ムスリム世界に広くみられる「聖者信仰」に相当するこうした慣習がエチオピアにもあることを示唆している。ムスリム聖者は必ずしもスーフィー教団に属するとは限らないが、アルファキー・アフマド・ウマルはティジャーアルファキーとは何者だ? 私がアルファキー・アフマド・ウマルと「出会った」のは1993年である。当時まだ大学院生だった私は、エチオピア南西部にあるジンマ県でイスラームの拡がりについて人類学的調査を行っていた。南西部のムスリム社会では、イスラームの普及に貢献した人物の死後に建てられる墓廟(クッバ)に地域住民が定期的に参詣するという習慣がある。そうした墓廟をひとつひとつ訪ね歩き、そこに埋葬された人物たちの歴史についてインタビューするなかで、私は西アフリカ出身のアルファキー・アフマド・ウマルの名前が頻繁に登場するのに気づいた。この人物は西アフリカからどのような経緯でエチオピアにやってきたのだろうか? なぜ人々からこれほどまで尊敬をもって慕われているのだろうか? アルファキー・アフマド・ウマルの足跡を辿る私の旅はこうして始まった。ニーヤと呼ばれるスーフィー教団に属しており、神秘階梯のレベルの高い導師であったとされる。 今ではティジャーニーヤは、エチオピア西部のムスリムの間で最も広く受入れられているスーフィー教団のひとつとなっている。ティジャーニーヤは、モロッコ、アルジェリアで活躍したアフマド・アッティジャーニー(1815年没)により創設され、19世紀には西アフリカに浸透し、そこを発信源としてアフリカ全土に拡がり、現在ではグローバル化の影響により世界的に拡がりをみせている。スーフィー教団は「教団」といっても閉鎖的な生活共同体を構成することはなく、メンバーは普通の日常生活を送りながら、礼拝や祈祷を少し多めに行う程度なので、誰でも参加できる。ただティジャーニーヤが他と異なるのは、一旦ティジャーニーヤに入ると他の教団活動を停止しなければならない点である。スーフィー教団の教えは、師弟の二者関係のネットワークを介して伝えられるが、エチオピアにも人的交流の結果として19世紀後半にティジャーニーヤの教えが伝わった。アルファキー・アフマド・ウマルは、ティジャーニーヤの導師として、その普及に大きな役割を果たしただけでなく、同教団の「サラート・アルファーティフ(開放者への祈祷)」という祈祷句の勧奨を通して非ムスリム民衆へのイスラームの拡がりにも貢献したとされる。 「アルファキー(al-fakī)」という尊称は、法学者(faqīh)と清貧に生きる者(faqīr)の二つを含意し、アラビア語圏のスーダンでは法学的知識をもちあわせた知識人(‘ulamā’)が清貧を是とするスーフィー(神秘修行者)でもある場合にこの尊称をつけて呼ばれる。エチオピア南西部において「アルファキー」という尊称を付されるのはこのアフマド・ウマルただ独りであり、この尊称には彼がスーダンからやってきたエチオピア西部で広く崇敬を集めているムスリム聖者に、西アフリカ出身のアルファキー・アフマド・ウマルがいる。1953年に没した後も彼の人気は衰えるどころか高まっている。ここでは、エチオピア西部の人々との関わりを中心に、彼の生涯をみてみよう。石原美奈子 いしはら みなこ / 南山大学故ハッジ・アッバ・ドゥラ(右から3人目)。筆者(左から3人目)は、アルファキーの伝記の翻訳・解説をこの人物にお願いし、1ヶ月間ほぼ毎日通い続けた。*写真は、p.5左、p.6下、p.7左を除き筆者撮影。
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