28FIELDPLUS 2019 07 no.22され、デルタ地域が順次通年灌漑に切り替えられていった。その後、アスワンダムの建設(1902)、アスワン・ハイダムの竣工(1970)を経て、完全移行を果たした。これをもって、ベイスン灌漑は過去のものとなったのである。中世の土手を復元する 私がベイスン灌漑の研究に取り組み始めたのは2011年頃のことだったが、当時、ベイスン灌漑の様子がイメージできるほどの情報量を持つ研究文献はなかった。わかっていたのは、耕地を取り囲む土手が大変重要な意味を持つ構造物で、それは政府管理の大規模な土手と村管理の小規模な日常生活の中に溶け込んでいるエジプトのこと、もしかしたら、土手の痕跡がどこかに残っているかもしれないと考えた。とにかく何かしらの糸口をつかみたかった私は、史料の発掘を後回しにして、土手探しの旅にでたのであった。それは、研究人生初のフィールドワークであった。そして、カイロ以南の地域をめぐったところ、あることに気づいた。それは、今、車で走っているこの道こそが、かつての土手なのではないかということである。エジプトの農村部の道路は、周辺の耕地に対して高くなっており、その差は1メートル以上ある。また、カイロの南西100キロメートルほどの位置にあるファイユーム盆地の入り口では、レンガ造りの堰の遺構も残っていたが、これもまた農道として利用されていた(画像3)。 人々に忘れられた歴史が土地に刻まれている、という実感を得た私は、ますます土手に取り憑かれた。何とか土手に関する史料を得ようと、エジプト国立文書館で文書を渉しょうりょう猟した。ある日、『土手台帳』と題された台帳を手にした途端、状況は一変した。そこには、台帳が編まれた16世紀前半において土手が設置されていた場所や、その土手の維持管理を担う村名などが記載されていたのである。これには大いに興奮し、文書館で朝から晩まで一心不乱にその台帳の記録をノートに写し取った(エジプト国立文書館では、コピーに様々な制約があり、ノートに手書きで写し取るのが最もストレスのない複写方法である)。帰国後、その記録をもとに政府管理の土手の設置位置などを地図上にマッピングしてみたところ、美しい図ができあがった(画像4)。 その後、再びエジプトに戻り、この図を握りしめて、デルタ地域で土手の痕跡を探し回った。ところが、それらしい遺構も、地形もまったく見つからなかったのである。土手に大分されるということだけであった。歴史資料に基づく研究を旨とする文献史学においては、史料がないと研究が成立しないので、このような状況ではお手上げである。しかし、現在でも、歴史的な遺物が画像4 デルタ地域のガルビーヤ県のベイスン灌漑図:緑色の点線内が対象地のガルビーヤ県。黒線は政府管理の土手を、各色で表される面は土手に基づく水利圏を示す。政府管理の土手は、ナイルと垂直に設置され、堰の役割を果たしていたことがわかる。画像3 ファイユーム盆地の入り口に残るレンガ造りの堰:現在では農道として使われている。このように、エジプトでは、歴史的な遺構が日常生活の中に溶け込んでいる。(筆者撮影)エジプトエ ジ プ トスエズ湾ナイルユースフ運河ファイユーム盆地ガルビーヤ県カイロスエズアレクサンドリアカールーン湖
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