27FIELDPLUS 2019 07 no.22過去との断絶 皆さんは、「エジプト」というと何をイメージされるだろうか。おそらく、多くの人は、ピラミッドやその傍らを闊歩するラクダ、その背後に広がる広大無辺な砂漠を思い浮かべるのではないだろうか。確かに、エジプトは降水量がほぼゼロであり、国土の90パーセント以上を砂漠が占めている。しかし、1億人に近い人口のほとんどは、国土の10パーセントに満たないナイル流域に分布し、人々はいつの時代もナイルに親しんできた。彼らにとっての母なる大地は、砂漠ではなく、ナイルによって潤される緑豊かな土地である。 私は、エジプト社会の根底にあるナイルの水利用、そのために改変される土地、そして、灌漑や農地を維持するための制度、これらが歴史的にどのように変化してきたかということに関心を持ち、歴史学の見地から研究を進めている。大ピラミッドが4000年の歴史を背負って威風堂々と聳えているのを見ると、エジプトの歴史はなんと悠大なのだろうと感心するが、一方で、今は見ることができないナイルの増水期の様子を写した古写真からは、歴史の断絶を強烈に感じる(画像1)。このような連続と断絶の共存とそのダイナミズムこそが、エジプト史の大きな魅力になっているわけであるが、私の研究関心においても、19世紀以前と以後で大きな断絶がある。それは、通年灌漑への移行である。 ナイルは、今も昔も変わらず、夏季に増水し、冬季に減水する。このサイクルに気づいていた古代王朝の人々は、耕地の周りに土手をめぐらせ、増水したナイルの水を流し込んで耕地を灌漑した(画像2)。45日間ほど耕地を湛水すると、自然と水が引いていき、その後に冬作の種まきをするというのが、エジプトの伝統的な農業であった。季節ごとの水量変化を活かしたこの季節灌漑の方法は、湛水の様子が水をはったたらい444のようであることから、研究においては「ベたらいイスン灌漑」と呼ばれている。近代に至るまでベイスン灌漑はゆっくりと発展してきたが、19世紀に突如として大きな変化を迎える。ときのオスマン帝国エジプト州総督ムハンマド・アリー(在任1805–49)は、西洋列強に対抗すべく近代化政策を打ち出し、その一環として季節灌漑から通年灌漑に移行することを目指したのであった。この背景には、当時商品作物として莫大な収入が見込まれた綿花の生産量を増加させるねらいがあった。綿花はまだナイルの水位が低い季節に生育するため、伝統的な灌漑方法では十分な灌漑ができなかったのである。そこで、大規模な堰や水路が各地に設置されて流量が制御画像1 ナイルの洪水とピラミッド:ナイル上流から運ばれてくるシルト(沃土)を含んだ赤茶色の水が、ピラミッド手前の集落まで迫っている様子が写されている。2頭のラクダは水の中を進んでいるようである。1890-1910年頃。(アメリカ議会図書館のウェブサイトより[https://www.loc.gov/resource/ppmsca.41356/]最終アクセス日2019年5月7日)画像2 ベイスン灌漑図:上エジプト地域におけるベイスン灌漑の仕組みを端的に表したもの。水路によって圃場(ほじょう)AからDに水が送られると、開放していた土手の一部である1~3を閉じて、湛水する。砂漠圃場A圃場B圃場C圃場D]1[]2[]3[灌漑水路ナイル川土手歴史資料を基礎として研究を積み重ねていく歴史学においても、フィールドワークは情報収集の手段の一つである。特に、当時のものが何らかの形で残されている場合、フィールドはまたとない歴史資料を提供してくれる。エジプト・ナイル流域の土地に刻まれた歴史の連続と断絶熊倉和歌子 くまくら わかこ / AA研 フロンティア
元のページ ../index.html#29