18FIELDPLUS 2019 07 no.22タイチェーオの住む漁村バンコク村から16キロメートルのところにある町までの道は、人気のないマングローブ林と、ゴム園の間を通り抜けなければならず、道連れは必ず必要だった。その道は赤土で、乾いているときは、髪の毛や顔がオレンジ色になるほどの土煙がまいあがり、また雨が降るとぬかるんで滑り、町まで行くのはちょっとした遠出であった。しかし町では、村では普段食べることのできない焼きそばを食べたり、甘いミルクのたっぷり入ったアイスティーを飲んだり、買い物をしたりと、月に1度ほどのこの遠出を二人とも楽しみにしていた。チェーオの結婚と子供 長期のフィールドワークを終えて1989年に帰国した翌年、再び村を訪れたときにちょうどチェーオの結婚式に参加することができた。私は花嫁の友人としてつきそい、また当時村ではカメラをもっている人がほとんどいなかったため、カメラマンとして、鶏をつぶして料理するところから、式を終えるまでの過程を写真におさめていった。 次に村を訪れたときには、チェーオはベンという息子を出産したばかりだった。タイの村では、子供はおむつをしない。下半身は丸出しで、高床式の家の床は竹で編んであるので、大小便を家の中でしたとしても水をかけて床下に流してしまえばいいのである。チェーオの家の床にあぐらをかいて座り、ベンをだっこしたとたんだった。いきなり勢いよくピューとおしっこが発射され、身につけていたタイ風の巻きスカートがびしょぬれとなって、私はあわてて飛び上がった。それをみて一同大笑いとなったが、その後ベンが大きくなっても、当人を前にしてチェーオとはその話で笑い転げる。チェーオの父の死 チェーオの父親のナーチュイはエビ漁を専業と南タイの村の生活 チェーオは、1987年から1989年にかけて南タイのムスリムと仏教徒が混住する漁村にはじめてフィールドワークに入ったときに知り合った、数少ない同年代の女性の一人だった。仏教徒の彼女は、カニ漁に従事していたが、まだ結婚しておらず親と住み、比較的自由な時間がもてたため、いつも村から町まで行くときには誘って一緒にでかけていた。 調査村は、当時、特にムスリムの酒のみが多く、この地域でも酒の売り上げが一番だという評判をきいていた。村で居候させてもらう家に到着した初日に警察官が早速数人で車でやってきて、酔っぱらいに気をつけろ、暗くなったら一人では出歩かないようにと警告していった。私は、50ccの中古バイクを手に入れ、移動手段にしていたが、していたが、趣味人で、本業以外に小舟で村の沖合の海に浮かぶ奇岩に登って燕の巣をとったり、鳥を仕掛け網でとったり、ハチミツを森の中に探しにいったりと、他の村人があまりやらない色々の「遊び仕事」に、私をしばしば連れていってくれた。 子供の頃はチェーオはそんな父親にくっついてまわり、姉と弟二人の4人兄弟の中でも、大の父親っ子だった。ナーチュイを悲劇が襲ったのは、2002年のことである。ナーチュイは、マングローブ林の中で、ナーチュイと妻との姦通を疑った村の外から婚入してきたばかりのある男性に、斧で頭を切りつけられて殺されてしまったのである。ナーチュイを殺した犯人は、村の中に潜んでいるところをすぐに捕まった。チェーオは「助けることはできなかった。避けることはできなかった。この人が殺さなくても、時が至れば死ななくてはならない」と諦念を示す言葉を口にした。 ナーチュイが殺されたのは、カニの好漁場だった。チェーオは、しばらくはそこに罠を仕掛けに行けなかった。チェーオだけではない。二ヶ月たっても誰もそこにはカニの罠を仕掛けに行かなかったという。チェーオは、他の人は全然とれないときもなぜか彼女の仕掛けた罠にはカニがかかるというカニ漁の名人である。チェーオは、父親の死後果敢に漁場に戻ろうとした。 彼女は次のように言った。「お父さんの火葬がすんで、一、二回の潮は罠を仕掛けに行けなかっ遠いところにいる「友だち」を想うはじめて南タイのフィールドに入ってから30年、そこで多くの時を一緒にすごしたチェーオとは、その後つかず離れず、互いの生を交差させつつ年を重ねている。日常的に会うことのない「友だち」とのかすかな繋がりから、生のはかなさを感じ、それゆえにこそ繋がりの大切さを想う。マングローブ林の中をカニ漁にむかうチェーオ(2004年)。カニの好漁場のマングローブ林(2004年)。友だち西井凉子 にしい りょうこ / AA研
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