FIELD PLUS No.22
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17FIELDPLUS 2019 07 no.22すらと理解しはじめたのであった。同じ釡の飯を食った友だち444 もしかすると、この国で言う友だちとは、私がこの語を聞いて想像する友だちと何か違うのかもしれない、と思い始めたのはその頃のことだった。 「ウズベキスタンの感覚ではどのタイミングで友だちになるの?」と、あるとき私は学生寮で同じフロアに暮らしていた男子学生たちと夕飯を食べているときに尋ねたことがある。目が合ったら、一度話したら、お互いの名前を知ったら……と、やっぱり!と思うような意見が次々と出されたなかで、もっとも印象に残っているのが「同じカザン(鍋)のプロフ(ウズベクの伝統的なピラフ)を食べたら」という回答だ。日本語にも「同じ釡の飯を食った仲」という表現があるだけに、妙な親近感を覚えるばかりだった。 その当時、さまざまな手違いから寮の男子フロアに一室をあてがわれた私は、毎晩のように男子学生たちと集まって夕飯を食べるのが習慣となっていた。伝統料理のプロフは男性が作るものと考えられているのもあり、毎晩誰かしら美味しいプロフを用意してくれたが、彼らはまさに「同じカザンのプロフを食べた」友だちだった。友だち444から家族へ 同じカザンのプロフといえば、調査先で訪れる家庭では必ずと言っていいほどプロフを振る舞われたことも思い出深い。留学中の私は、時間が合えば知らない人の結婚式に友だち444として出席することもあったが(その当時の私を知る日本人の友人はレンタル日本人と私を呼んだ)、ほとんどの時間は本来の目的であるタタール人のことばの調査に精を出していた。調査の都合で同じ家庭を何度も訪ねることは珍しくなく、普段飲んでいる紅茶の銘柄を家庭ごとに把握するまでにさほど時間はかからなかった。帰国から5年が経過した今も頻繁にやり取りがある友人の多くは、調査で出会った人々である。 「娘や、私の愛する娘や、いつでもうちに帰っておいで」と言って別れ際に私を抱きしめた彼女は、いつしか私にとっても研究協力者以上の、友だち以上の存在になっていた。70歳を目前に控えた彼女はいつもにこにこと笑っていて、スマートフォンも使いこなす元気な女性だ。出会った当初は「日本から来たお友だち」と近所の人に紹介されていたが、何度も通い、同じカザンのプロフを食べながら、お互いの本音がすらすらと口から出てくるようになったころには「私の娘」と紹介されるようになっていた。いつしか第二の故郷に 結婚式に私を呼んでくれた名前だけ知っている友だち、ウズベク語の授業中にいつもこっそり答えを教えてくれた友だち、同じカザンのプロフを毎晩一緒に食べた友だち、私を娘として迎えてくれた家族同然の友だち……留学中に出会った友だちの顔を思い出すたびに、里心がついてしまう。あのとき、私は確かにこの国に暮らす人々とのあたたかな繋がりのなかで生きていた。そして、ウズベキスタンという異国の地が私の第二の故郷となったのは、紛れもなく、この地で出会った素敵な友だちのおかげだった。 自宅の自慢のかまどでタタール料理を作る友人ライラの後ろ姿。私を娘として扱う彼女は、私にとっては何でも話せるおばあちゃんのような存在だ。(2013年7月、筆者撮影)留学中ずっとお世話になった文具屋の店主ボティルと。ウズベク語の授業のあとはよく彼の店に行き、何度も会話の練習に付き合ってもらった。大切な友人のひとりだった。(2014年3月、櫻間瑛撮影)ウズベキスタンの典型的な結婚式(披露宴)の様子。会場には常に大音量のダンス音楽が流れており、フロアでは招待客が踊りたいタイミングで踊る。(2013年4月、筆者撮影)留学中お世話になった友人家族と。当時大学院生だった友人ノモンジョンはよき議論の相手で、時おり自宅に招いてごちそうしてくれた。お母さんの料理はどれも美味しかった。(2013年11月、セルフタイマーで撮影)ウズベキスタンタシュケントアラル海カスピ海

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