15FIELDPLUS 2019 07 no.22や言葉は雄弁なほうでない。ゴングの常連でもあるが、それ以上に儀礼=飲み会の常連だ。酔ってすぐそこらで寝てしまい、いつのまにかまた一人で立ち去ってしまうから、私は彼をよく見かけるのにあまり会話をしたことがなかった。ゴング奏者としての彼は、酔っ払ってちゃんと打たないときも多いためかとくに評価されていない。でも、熱心に打っているときの彼は、粘っこい弾力ある音を響かせるので、私は彼に聞き入ってしまうことがよくあった。 プップップップップップップップッ……。ああ、彼が打つと周りの奏者も生き生きしてくる。彼が教えてくれたのは、ゴングをわずかに投げ上げて打つやり方だった。直径30cmちょっとのゴングの裏側の広い面の中央に左手のひらをぴったりつけ、投げ上げてわずかに宙に浮かせる。その瞬間ゴングの表のコブを右手のバチが打つ。ミュートなしの音が広がった次の瞬間には左手のひらがゴングを受け止めて音がやむ。速いテンポでこれを繰り返すのは大変だが、リアルな放物線のリズムとでも言おうか、独特の心地よい弾力が音にこもる。手本を示して彼は、「こんなんよ、へへへー」と一瞬だけ私の目を見てくれた。その打ち方が良いのはどうやら衆知のことだったが、皆は腕が疲れるからやらないようだった。ともあれ背中を押された私はプップッ以外のゴングのパートもだんだん覚えて1年ぐらいで常連の末席に連なるようになった。4人の肩身の狭い男たち ところで、私は村の一般男女からからかわれることがある。飲みの席でもったいたっぷりに「この村で結婚してない男、だれ?」ときかれ、私が「○○、△△、グルモイチ、私」と、私(そう、それに彼グルモイチも)を含む4人の名を挙げ、予定調和の笑いがおきるというものだ。名前も暮らしも互いに知れ渡っている300人の村の内輪の下世話さだ。笑われるのが私一人ならまだよいが、ところ変われば立派な「セクハラ」の会話に加担してしまうのは後ろめたい。結婚しなくて何が悪い。ひとの人格をそれに結びつけるな。そう心で思いながら堂々と4人の名を挙げるのだが、笑われているところに気張っても手ごたえがない。うーん、悩ましい……。 いや、本題は違うのだ。あるとき私は気づいた。その4人が皆ゴングの常連であることに。偶然だけれど、全くそうとも思われない。事情はそれぞれだが4人とも、畑仕事をしない・できない(ゆえにヒマである)、いくぶんコミュニケーションが苦手、でも孤独はつらいので村をさまよう、行く先々で酒を飲んでしまう、ますますしまらないキャラに見られる(これらとの因果関係は知らないが結婚もしてない……)。私は参与観察の四文字を心で唱えながら村をくまなく歩いていたのだが、周りには全然違った姿に映っていたのか。 でも、いたたまれなくならないことに、そこにゴングがあったということなのだ。○○、△△、そしてグルモイチに私は、似た者どうし、図らずもゴングに引き寄せられていたのかもしれない。ゴングは周りの皆とも一体感が生まれるし、何かに打ちこめている充実感を味わえる数少ない機会なのだ。事情は屈折しているけど、これも一種の音楽の包容力なのか。友だちへ グルモイチは、おのれの肉体をフルに巻きこみ、重さと音と筋肉感覚だけで頭がからっぽになってしまうあの投げ上げに身を任せたくてやっていると思う。なんだかんだの現実に「やりすごせ、やりすごせ」と思って叩いてるんじゃないか。きみの音がそう聞こえるのは、私もそうだからだろうか。いまだに言葉は少ないけれど、そんなふうに思えるきみを「友だち」と思っていいかな? ビールを飲む筆者(右)と村の知人。筆者知人撮影、2015年。村の人々とゴング演奏に参加する筆者(右)。水牛を精霊に捧げる儀礼にて。筆者知人撮影、2015年。ゴングを演奏する村の人々。水牛を精霊に捧げる儀礼にて。筆者撮影、2015年。儀礼で壺酒を飲む村の人々。徹夜の精霊憑依儀礼の翌朝で眠たげな人もちらほら。筆者撮影、2015年。ゴング5枚による演奏。筆者撮影、2012年。
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