FIELD PLUS No.22
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11FIELDPLUS 2019 07 no.22諸派のキリスト教徒や急進派イスラーム復興主義者が訪れるようになるなど、集落を取り巻く状況は再び大きく変わりつつある。他方で、アブドゥルカリームはマサラの外に出ることをやめ、人々との面会も断つようになった。それは、現在も続いている。聖者と祈祷 1960年代中頃、シェ・アミルという名の男性がトリを訪れる。この男性は、アルファキーを敬愛し、墓廟があるヤアに参詣したこともあった。ある日、シェ・アミルの夢にアルファキーが出てきて、アブドゥルカリームのために働くようにと告げたという。シェ・アミルは、犠牲祭の際にトリを訪れ、アブドゥルカリームとアブドゥルハリムに拝謁した。その後、アルファキー、アブドゥルカリーム、アブドゥルハリムを称える宗教的詩歌を創り始めた。 1980年代初頭にシェ・アミルがトリに住み着くと、シェ・アミルが創る宗教的詩歌に惹きつけられた人々が彼のもとに集うようになった。1990年の犠牲祭の際には、礼拝に訪れた人々の約半数が、シェ・アミルが創った宗教的詩歌を唱和しながらマサラの周りを回った。こうした動きは、デルグ政権が規制していた宗教運動とみなされ、することは認められなかった。その土地での収穫物のうち、半分はマサラに納めることが義務づけられ、残りの半分は自家消費することが認められていた。また、週2日は集落での労働が課せられ、住民はマサラへの薪の提供、水路の維持、農耕、柵の建設や修繕などに従事した。 トリは閉鎖的な集落であった。トリと他の集落をつなぐ道は限られており、住民と外部者が集落を出入りすることは制限された。住民には、独自の秩序、規則、規律の厳守が課せられ、集落内で問題が発生した場合も、国家の司法によって解決することは認められていなかった。 ところが1974年にデルグ政権になると、トリは大きな変化に直面した。土地の国有化と再分配がはじまり、集落での週2日の労働義務や、マサラへの収穫物の納付の義務は失われた。とりわけ、集住化計画のもとで1987年にトリの土地が接収されて人々に分配されると、アブドゥルカリームとアブドゥルハリムは自らマサラの外へ出て「普通の人」となって住民とともに働いた。 1991年にエチオピア人民革命民主戦線(EPRDF)が率いる政権になると、政治・宗教・経済の自由化が進められるようになった。それによって、トリにプロテスタント弾圧の対象ともなった。 しばらくして、アブドゥルカリームも、シェ・アミルが創る宗教的詩歌の意義を認めるようになった。しかし、シェ・アミルが創った宗教的詩歌には、悪態をはじめ、祈祷には相応しくない言葉もあった。そのため、アブドゥルカリームがそうした言葉を取り除いて整え、祈祷句が誕生した。世界に安寧を 毎週、金曜日と土曜日の昼頃に近隣の集落とエチオピアの各地から、老若男女がトリに集う。なかには、海外から訪れる人物もいる。人々は、アブドゥルカリームが植えたという一本の木の下で、約30分にわたって集団で祈祷をあげるために訪れるのである。そこで唱えられるのは、シェ・アミルが創り、アブドゥルカリームが整えた祈祷句である。 この祈祷句は、オロモ語とアラビア語が混ざり合った短いもので、合計61種類ある。人々は、これらの祈祷句を定型のリズムにそって繰り返し唱える。祈祷句は、集団祈祷のほか、儀礼に用いる葉のカート(噛むと覚醒効果を得られる植物)を噛む時、食事の前後、集団労働の時など、日常のあらゆる場面で唱えられる。祈祷に際しては、香が焚かれ、煙と薫香が聖なる空間を創り出す。他方で、子どもたちは遊びながらこの祈祷句を口ずさむ。 現代のエチオピアは、日々、目まぐるしい変貌を遂げている。変化の波は、トリにも押し寄せているが、現在もトリは人々にとって祈りの場であり続けている。そして人々は今日もトリで祈る。アブドゥルカリームがとりなすバラカ(神の恩寵)によって、世界に安寧がもたらされることを願って。 集団祈祷に加わって祈る女性たち。アブドゥルカリームに拝謁し、感極まる参詣者。アブドゥルカリームの従者、参詣者との記念撮影。

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