FIELD PLUS No.22
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8FIELDPLUS 2019 07 no.22人々はモロコシ(タカキビ、コーリャン)、トウモロコシ、ゴマなどを栽培し、牛や家禽を飼養する自給自足の生活を送った。このようにして集落が形成された際、住民はアルファキーを慕うムスリムである点、さらには同じ言語、慣習を共有するオロモであるという点で同質であるだけではなく、土地・家畜の所有においても平等であった。 アルファキーが息を引き取ったのは、ヤアに居を移したおよそ半年後の1953年のことであった。周囲の人々は悲しみに暮れつつも、アルファキーの生前の指示に従い、彼の住居の傍に墓廟を設置した。アルファキーを頼ってヤアを訪れる人の流れは彼の没後も止むことはなかった。 住民らは、聖者廟を組織的に管理し、一丸となって参詣者をもてなすためにモスク委員会を組織した。モスク委員会は、近隣にいくつもの製粉所を設置しそれを財源としつつ、集落内にも水力製粉設備やトラクターを導入するなど住民の農作業を支援しながら、宗教生活や組織的労働を規定し、宗教共同体としてのヤアの集落生活を軌道ヤア村の成立 エチオピア、スーダン、南スーダンの3国の国境が接する地域一帯は深い森に覆われている。聖者アルファキー・アフマド・ウマルの墓廟は、この森を切り拓いてできたヤアと呼ばれる集落の中心に位置しており、現在はベニシャングル・グムズ州の西端に位置付けられる。 アルファキーは晩年の巡礼でメッカに到着した際に病床に伏した。彼は夢を見るなかで、ヤアと呼ばれる地に向かいそこで生涯を終えよという託宣を受けた。エチオピアに戻ったアルファキーは、従者らと共にヤアを目指し、現在のベニシャングル・グムズ州の一角に辿り着いた。その頃の同地は剥き出しの岩石と竹林の広がる未開拓地であった。アルファキーは周辺に暮らすマオ、コマ、ベルタといった民族集団と協力関係を築きながら、ともに村造りに取り組んだ。当時、この村造りに協力するために集まった人々は千人を超えたと言われている。 従者らはアルファキーの住居を中心に各々の住居を築き、集落が形成された。に乗せた。 しかしながら、1974年に同国に樹立された軍部主導の社会主義政権(デルグ政権)は、ヤアの状況を一変させた。デルグ政権下で個人の土地・財産のみならず、ヤアの重要な経済基盤であった集落外の製粉所も接収された。また同時期、エチオピア・スーダン国境一帯では、エチオピア国軍及び両国の反政府勢力が戦闘を展開していた。これによりヤアはときに複数の軍勢から略奪を受けるなど、経済的・物理的打撃を被った。 デルグ政権が崩壊し、1991年にエチオピア人民革命民主戦線(EPRDF)が政権の座に就くと、地方政府による開発計画及び、村外からの富裕信者らの寄進により、学校、診療所、水力発電所、電話局といった施設が設置され、人々の生活は再び一変した。 近年、ヤアはラジオ・テレビ放送で何度となく紹介されるなどして、地域、民族を問わず、多くのエチオピア人に知られつつある。また、交通網の敷設によりアクセスが改善されたことで、エチオピア各地から大勢の人々が訪れる、同国西部を代表する参詣地となっている。住民による参詣者への歓待と宗教的使命 ヤア住民は、生前のアルファキーが来客を厚くもてなしたことに倣い、ヤアを訪れる参詣者を手厚く迎える。この歓待の精神が最大限に表出するのが、毎年のイスラームの大祭に参詣者に提供される夕食である。アルファキー・アフマド・ウマルが没したのち、従者らが彼の墓廟を管理する過程で形成されたヤア村。現在の住民であるその子孫たちは、聖者廟参詣にヤアを訪れる人々を厚くもてなし、それを自分たちの使命と語る。ここではヤア住民による参詣者の歓待がどのようなものかを見ていこう。松波康男 まつなみ やすお / 東京外国語大学現代アフリカ地域研究センター特任研究員ヤアの聖者廟のドーム。聖者廟の入り口で身を浄める参詣者。聖者廟の参詣台に額を付けて祈祷をあげる参詣者たち。*写真はすべて筆者撮影。

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