FIELD PLUS No.21
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27FIELDPLUS 2019 01 no.21向こうからやってきたいくつものこと なぜ私が「ケニア」の「聾ろう」の「子供」の広義の「コミュニケーション」を事例に研究することになったのか。「向こうからやってきたから」としか答えようがない。もう5年以上調査に出られないということに関しても、巡り合わせが悪かったと思うことにしている。家庭環境が許さないし、許してもらおうとも思わなくなった。いかなる状況であろうと、海外調査に行ける人は行けるし、行けない人は行けない。たまたま、私は後者であるだけだ。 ここでは、調査に行けないなりにおこなってきたことを記したい。それは、約2年余にわたる調査中に撮りためた「動画データ」との格闘の一部と、それによりいかなる成果(戦果)をひとまず挙げたのか、そしてこれからどこへ向かおうとしているか、である。 偶然の出会いが重なって、博士課程に在籍していた2003年7月から、ケニアのとある初等聾学校に住み込んで調査をおこなうことになった。ケニアで調査を始める導因も向こうからやってきた(それについては割愛)。「アフリカ」のことも、「ケニア」のことも、ましてや「手話」のことも「聾」のことも、「子供」のことも、ケニアでの生活の仕方すら全く知らなかった。転がり込んだ資金で「先行調査」の機会を得た2003年3月、初めてケニアの地を踏んだときに初等聾学校の存在を知り、一期一会で導かれるままにそこへ行き、いつの間にかその聾学校が生活/調査拠点になった。ビデオカメラが必要になるだろうと思い当時の指導教授に相談したものの、「ビデオカメラはまだ早い」、「写真を撮るなら、人数分現像して配ることを前提に」と言われた(実際、ヨーロッパからの見学者が聾学校を訪れ、撮りたいだけ撮った写真を1枚たりとも配らずそのまま持ち帰った彼らの悪評はしばらくのあいだ続いた)。私は、その年の7月から、丸腰でケニアの初等聾学校に住み込むことになった。 困ったことに、本格的な調査をおこなうはずだった7ヶ月間、ほとんど生活しかできなかった。聾学校の就学生たちが唐突におどりまくるなど、文字では到底記録できない「身体的営為」が四六時中私の目の前で繰り広げられたのだ。困り果てた私を見かねた聾学校の教員たちが、「次に来ると画像1:まずは就学生の「サインネーム」(手話による呼び名表現)を記録しようとした。ケニアの初等聾学校の女子寮にて。ケニアの聾の子供たちとの生活を通して探究したいことは山ほどできたけれど、一度きりの人生でかなうことはほとんどない。私が朽ち果てたのち、きっと誰かが大胆に形を変えてやってのけてくれるはず、そう信じている。フロンティア探究すべき何かは向こうからやってきたケニアの聾の子供の「コミュニケーション」をめぐって吉田優貴 よしだ ゆたか / AA研研究機関研究員 

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