FIELD PLUS No.21
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19FIELDPLUS 2019 01 no.21ずをつまんで口に運ぶ。インジェラは発酵食品であるため独特の風味と酸味があり、エチオピア高原の人々はその味わいを愛してやまない。しかし外国人の好みは分かれ、やみつきになる人がいる一方で、書くのが憚られるような表現でその見た目や味を酷評する人もいる。私の場合、そのような酷評には憤りを感じるものの、インジェラの酸味は苦手で、好物とは言えない。 エリトリアの高原部でもインジェラは食されているが、この地の食文化はエチオピアのそれとは一味違う。それはエチオピアとは異なる歴史的経験に由来する。19世紀後半、植民地化の嵐がアフリカ大陸で吹き荒れるなか、エリトリアはイタリアの植民地となった。イタリアの支配の拠点となったアスマラには、モダンな建築物が次々に建設され、イタリアのカフェ文化が持ち込まれた。イタリアの支配は第二次世界大戦の開始間もなく瓦解するが、現在でもアスマラにはイタリア植民地期の建築物が残り、カフェでエスプレッソを飲むことができる。アフリカの史跡巡りと食 アフリカの多くの社会は独自の文字を持たず、文字が本格的に使用されるようになったのはヨーロッパ諸国による植民地支配以降であった。そのためアフリカの多くの地域では、過去の歴史を知るために口頭伝承や考古学の研究成果を用いる必要がある。そのなかでエチオピア高原は例外的に古代から文字記録が残されてきた。私はゲエズ語というエチオピアの言語で書かれた文字記録と、16世紀から17世紀にかけてエチオピア高原で布教活動を行ったイエズス会士が残した記録を用いて研究を行ってきた。文字記録を中心に研究を行っているとはいえ、史跡に赴き、そこに立って分かることも多い。何よりも「史跡を見たい」という欲求は歴史学者の習性のようなものである。そのため私はアフリカ史の研究を始めてから、アフリカ諸国の史跡を巡ってきた。 アフリカでは、ユネスコの世界遺産に認定されるような名のある史跡であっても説明板がぽつんと立っているだけということは珍しくなく、日本のように観光客目当ての飲食店が軒を連ねているようなところは滅多にない。また広大なアフリカの大地に点在する史跡を効率よく巡るために、移動スケジュールは余裕のないものになることが多い。さらにエチオピア高原の場合、命綱に命を預けて絶壁を登ったり、空気の薄い高原で起伏の激しい道を数時間歩かなければ辿りつけないような史跡があるため、史跡巡りといえども、緊張を強いられ、体力を消耗し、食欲が失われていくことも少なくない。このような事情で、私の場合、史跡巡りでは空腹を満たすことが優先となり、長逗留して夜な夜な地元の居酒屋を放浪することなど夢のまた夢である。砂に埋もれたいにしえの港にて アフリカ諸国の史跡巡りのなかで食べた料理のなかには、記憶に残っているものもそれなりにある。しかしそれらがすべてよい思い出というわけではない。美味しいと感じた場合でも、「日本で品揃えのよいスーパーに行って同じ材料を調達し、自分で調理した方が美味しいだろう」と思いながら食べた記憶が一緒であることも多く、「ごちそうと感じたか?」と問われれば心許ない。それゆえ「フィールドで見つけたごちそうとは?」と聞かれると、悩んでしまう。それでも「あれはごちそうだったな」と私の脳裏に刻まれているものもある。ここではその「ごちそう」について書こうと思う。 自分の研究の話をすると、しばしば「なぜアフリカ史を研究しようと思ったのですか?」と聞かれる。私がアフリカ史研究の道に足を踏み入れたきっかけは、大学である講義を受講したことであった。「大学では高校とは違う講義を聴きたい」と意気込んで大学に入学した私は大半の講義に失望を感じた。そのなかで唯一私が魅了されたのが、後の恩師が開講していた『エリュトゥラー海案内記』についての講義であった。 『エリュトゥラー海案内記』とは1世紀にエジプトで記された紅海・インド洋の商業案内書である。恩師の講義は極めて専門的で、研究に対する情熱がひしひしと感じられた。私にとって、それはまさに大学で求めていた講義であった。『エリュトゥラー海案内記』が対象とする広大な領域のなかで、なぜか私はエチオピアのアクスム王国とその主要港であったアドゥーリスに関する記述に惹かれた。それが縁となって私は恩師の指導を仰ぐことになり、アフリカ史研究の道を歩むことになった。 それから年月を経て、私はエリトリアにあるアドゥーリスの遺跡を訪ねることができた。かつて紅海に面する国際商業港であったアドゥーリスも、今は土砂の堆積によって内陸に位置している。そこは夏の最高気温が55度にも達するダナキル砂漠の入口にあたる場所で、真夏でもないのに気温は恐ろしく高かった。「天国に最も近い島というのがあるらしいが、入口でこれほど暑ければ、ダナキル砂漠は地獄に最も近い場所だな」と独り言を言いつつ、私は自分を研究に導いた史跡を訪れることができた喜びを胸にアドゥーリス遺跡を見て回った。 2時間近く経過してようやく満足した私は、危険を感じるほど身体が乾ききっていることに気付いた。渇きによって死を間近に感じたのはその時が初めてであった。私はあわてて最寄りの村に向かい、ペットボトルの水を購入した。かつて地中海世界にまで名前が知られたアドゥーリスも今は片田舎で、売店にも冷蔵庫はない。口に流し込んだその水は生温かった。しかし憧れの地をようやく訪問することができた感激に浸りながら飲み干したその水は、私にとってかけがえのないごちそうであった。 日本に帰国してしばらくは、好みの飲み物を好きな時に好きなだけ口にできることに感激するものの、いつしかそうした感激は薄れていく。しかし折に触れて私はフィールドで感じた感激を思い出し、ありふれた水がフィールドでは確かにごちそうであったことを思い出す。 17世紀前半に造営されたエチオピア王国のダンカズ宮殿からの眺望。エチオピア高原では長年の風雨の浸食によって創り出された険しく、壮大な風景に息をのむことが多い。しかしその険しさゆえに、史跡巡りの道は時として困難なものになる。アクスム王国の主要な港として、地中海世界とインド洋世界を結ぶ東西海上交易で栄えたアドゥーリス遺跡も現在は荒野に埋もれている。

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