12FIELDPLUS 2019 01 no.21転輪の西北、三日月の東きっかけとなったのは、インド、パキスタンの核実験と、それをめぐる報道だった。いかにしてそこからカシミール地方の歴史への眼差しが導かれたのか。1998年のこと 1998年、中学3年生のときのことである。インドは1974年以来の沈黙を破って核実験を実施した。「平和的爆発」と強弁した74年のときとは異なり、軍事目的によることを正式に表明した核実験であった。それからひと月も経たぬうちに、隣国パキスタンも核実験を強行し、核兵器の保有を表明した。当時私の手元にあった社会科の副教材には、世界の核保有国というキャプションとともに、いわゆる国連の五大国に色が塗られた地図が付せられていたが、更にインドとパキスタン、地図上に描かれた二か国の領土に自ら色を塗ることになった。そして翌1999年、両国間の管理ラインに近いカルギルで軍事衝突が勃発、一時は核兵器の使用を伴った戦争に発展することが国際社会で危惧された。 連日の報道は語る。両国の核実験の背景にあるのはカシミールの帰属問題であると。かつてインドがイギリスの植民地であった頃、藩王と呼ばれる支配者がイギリス政府の保護のもと、ヒマラヤの山々に囲まれたカシミール地方を支配していた。同地の住民は大多数がイスラーム教徒であり、一方で支配者である藩王はヒンドゥー教徒であった。1947年にインドとパキスタンがイギリスから分離・独立を果たした際、カシミールの帰属をめぐって両国の間で戦争が勃発し、国連の調停を受けて同地に停戦ラインが引かれ、分割統治がなされることになった。もともと藩王が支配する国に暮らしていた住民は、このときに引かれた線によって引き裂かれ、向こう側にいる親族と連絡をとることも困難になっている。ここまでが当時の新聞やテレビで知り得た情報である。当時印象に残ったのは、英領期カシミールにおいて、藩王と住民の大多数が信仰していた宗教が異なっていた、という点である。そもそも当時の私はインドと言えばカレーやダンス、ヒンドゥー寺院や象の頭をしたガネーシャ神などをイメージする程度の知識しか持ち合わせていなかった。多感な中学生時代に報じられた連日のショッキングな新聞やテレビの情報は、かの地に住むイスラーム教徒の存在を意識させることになった。「いつ、どのように?」という問い 高校の世界史教科書(山川出版社)には、「インド・東南アジア・アフリカのイスラーム化」と題された節が存在する。しかしこの節で説明される「インドのイスラーム化」とは、10世紀末のガズナ朝の軍事遠征に端を発する、インド亜大陸におけるムスリム王朝の興亡のことであり、扱われる地域は現在のインドの首都、デリーのみだった。住民がどのようにイスラームに改宗したのか、といった問題は扱われていない。ここに一つの疑問が脳裏に浮かびあがる。「ムスリム王朝の首都からほど遠く、山々に囲まれたカシミールの地で、いつ、いったいどのように住民の大多数がイスラーム教徒である社会ができあがったのか?」それが、始まりだった。それでも歴史の道へ 私がカシミールに関心を抱いたきっかけは、このように中学生時代のインド・パキスタンの政治状況と、それを伝える報道だった。このような体験から研究を志したのだから、ことによっては1947年の両国のイギリスからの独立以降の現代史や国際政治学、あるいは停戦(管理)ラインによって引き裂かれた住民たちの民族誌を、フィールドワークを通じて書く、といった道もあり得たかもしれない。しかし、イスラーム教徒が多数を占める社会の形成という歴史的な問題をないがしろにして、いきなり現代の問題を扱うことは、どうも自分の肌感覚には合わなかった。まず現代につながる歴史を知らなければ、現代のことも理解できないと考える性分なのである。あれから幾星霜、インド側、パキスタン側それぞれのカシミールに足を運ぶようになり、現地の住民がこの地域の「イスラーム化」が進んだ時代のことについて雄弁に語る様を目にするたび、あの時の自分の感覚は間違いではなかったのだと実感する。私の歴史研究もどこかで現代の問題の解決に寄与するところがあるかもしれない。そのような淡い希望を抱きつつ、今日も研究机に向かう。 小倉智史おぐら さとし / AA研インド側カシミールの夏の州都、スリナガルにあるカシミール大学のキャンパスから山を眺める。パキスタンインド印パ停戦(管理)ラインパキスタン側カシミールジャンムーカシミール
元のページ ../index.html#14