フィールドプラス no.20
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『ヤルカンド聖者伝集成』の一葉(ホージャ・ムハンマド・シャリーフ伝劈頭)。カシュガルの「写本蔵」での点検作業風景(2006)。古本屋たちはモスクの北壁に寄りかかるように連なっていた屋台であった(2000)。工事中(2003)と工事後(2016)の祭り広場(イード・ガーフ・メイダーン)。29 さらに国家プロジェクト「西部大開発」の影響だろう、カシュガルも都市再開発の計画が策定され、市内の至る所で住民の郊外への移住が始まっていた。以前は時間がゆっくり流れていたカシュガルの町全体が、どこか落ち着きを失いつつあった。 2003年の夏にはカシュガルの中心部に本格的な改造が加えられた。金曜モスク前の祭り広場(イード・ガーフ・メイダーン)は掘り返され、周辺の市場、そして古本屋の位置する小路も建物の多くが取り壊され、カシュガルの中心部は一時は廃墟のごとくであった。 金曜モスク周辺部は2005年にはほぼ整理が完了し、祭り広場は面目を一新した。さらにその後も、引き続き市内の至る所で住民の立ち退●「写本蔵」に入る その変化の渦中、2006年のある夏の日、もうそのころは懐かしい小さな店舗の多くは営業していなかった。ただ、僅かに一番モスクに近い、つまり従前の本屋群の一角の東隣に位置していた常設の店舗では、まだ往来に本を並べて売っていた。店主は寡黙な中年男性であった。 そこで私が同行の畏友Aと一緒に「古い本を探しているんだ」と告げると、店主は「古い本ならたくさんあるから、中に入って選びなさい」と言い、店の一番奥へと案内してくれた。そこに足を踏み入れるや、私は息をのんだ。 そこはまるで「写本蔵」であった。部屋の隅に書架が設しつらえられてあり、そこには少なからぬ数のきと建物の建て替えが進められ、それは2015年ごろまで断続的に続いた。古写本が積まれていた。大きいものから小さいものまで、それぞれ皮で装丁され、古写本独特の芳香を放っている。私は、売り物として、こんなに多くの写本が並んでいるのを見るのは初めてだった。 それら古写本は、おそらくは長きにわたりそこに架蔵されていたに違いなかった。かつて、ここからすぐ近くの古本屋たちに日参しては、店主たちの蔵書はどんなものだろう、と長く関心を持ち続けてきた。それなのに、その時までほぼ20年余り、私はそうと知らずこの店の前を幾度となく通り過ぎていたのだ。 それから2日、私たちはそこですべての本を開き、内容をあらためた。多くは例によって宗教書や文芸書であったが、一冊、実に筋の良い聖者伝の写本があった。ホージャ・ムハンマド・シャリーフ廟やハフト・ムハンマダーン廟など、ヤルカンド所在のいくつかの聖者廟にまつわる聖者の伝説を一冊にまとめた集成で、史料的価値は高い。私たちはその写本をそれなりの金額で買い取った。後日、その写本に我々は『ヤルカンド聖者伝集成』と便宜的な名前を付け、影印本をAA研から出版した(アブリズ・オルホン、菅原純(編)『新疆およびフェルガナのマザール文書(影印)』2(Studia Culturae Islamicae, no.87)、 AA研、2007年)。●新しい本屋の姿 それから現在までの間に、私はなお幾度かカシュガルを再訪した。私たちが写本を買い求めたあの「写本蔵」は今はもう無い。現在あの場所は拡張された大通りになっている。つまり、私たちはあの古本屋が消失する直前の時期に、「写本蔵」に通され、蔵書を子細に点検する稀有な恩恵に浴したことになる。それは果たして喜ぶべきことか、それとも悲しむべきことか。いまだ私の心は落ち着き所を得ないでいる。 2016年、金曜モスクの大門のすぐ右側の区画に、きれいな常設書店が二つ三つ開業していることを知った。売っている本は真新しい、豪華な装丁の出版物ばかりであった。また、市内のあちこちで立派な構えの個人書店がいくつも開業しているのを私は見た。どの本屋もかつての古本屋よりも多くの本を並べ、子供から大人まで、多くの顧客を獲得しているようだ。 そうした新しい本屋の姿は、かつての懐かしい、屋台の古本屋とは似ても似つかないかもしれない。しかしそこは依然としてカシュガルの本屋なのだ。都市の改造をへて、大きく変貌を遂げてはいても、そこにはなお土地の言葉を話す人々がいて、書架に並べられたウイグル語の本を手に取りながら、馴染みの店員と何事かを語り合っている。そういういかにも本屋らしい、当世のカシュガル書店風景は、それはそれでまた別の、一幅のとても麗しい絵画のようでもある。

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