フィールドプラス no.20
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写真4:日本の代官に日本語を褒められ、朝鮮の訳官が謙遜する。『捷解新語』巻9第17張裏(ソウル大学奎章閣韓国学研究院所蔵、請求記号 奎貴1639)。写真5:ソウルの光化門広場にある朝鮮王朝第4代国王世宗像(児倉徳和氏撮影・提供)。27読み物としての語学学習書 ハングル文献には仏教や儒教関係の文献が数多く存在するため、必然的にこれらを用いて当時の朝鮮語を研究することが多いのだが、文脈を理解しようと読んでいるうちに落ち込むことがある。たとえば、儒教の教化書である『三綱行実図』(1481年頃)には、行いの規範とすべき孝子・忠臣・烈女の話がおさめられており、病気の姑のために自分の脚の肉を切って食べさせるという、まさに文字通り身を削って看病する孝行嫁が登場する。こんな話ばかりを読んでいると、「自分ももっと孝行し、正しく生きなければならないのに、私は一体何をしているのだ……」とうっかり自己嫌悪に陥ってしまう(ここまで思いつめるのは筆者だけかもしれないが……)。 これに対して、語学学習書は現実的で人間らしい話が豊富だ。たとえば16世紀の中国語学習書『翻ほんやくろうきつだい譯老乞大』(1517年頃、崔世珍・著)は、高麗の商人が中国人と共に大都に商売に出かけるストーリーから成っている。商売をしたり、宿を探したり、料理をしたり、酒を飲んだり、身の上話をしたりと、実に日常的な会話である(写真3)。以下の会話は、宿代をまけてもらおうと交渉するシーンだ。中国人王さんと宿屋の主人とのやりとりが妙にリアルである。 王 :主人、わしらはあす朝の五更に早めに出発するから、宿賃と食費を勘定しておこう。わしら人馬とも一泊して、全部でいくらになる?主人:(餅を作るための小麦粉、豚肉、まかない費、宿代、馬草など)しめて三十三両と七銭半になります。王 :馬草と穀物、それに小麦粉も、みんなおまえさんところで買ったんだから、少しくらいまけたらどうだね。主人:えぇい、よござんす、この三両七銭半の端数をおまけして、三十両だけいただきましょう。(『飜譯老乞大』巻上第22張裏)  ちなみに『老乞大』の「乞大」とは Kitai あるいは Kitat の音訳で、もともとは遼王朝を建てた契丹人のことであったが、のちに中国・中国人を指すようになった。香港の航空会社、キャセイパシフィック航空のキャセイ(Cathay)も同源だ。「老」は中国語の愛称・敬称であるとされている。これらをあわせた「老乞大」とは「中国通」という意味であると考えられている。 「中国通」という名の『老乞大』、実は中国語だけでなく他の外国語学習書としても用いられ、『蒙語老乞大』(1741年、モンゴル語)、『清語老乞大』(1703年、満洲語)が現存している。日本語版も編纂されたようだが、残念ながら存否は未詳である。『老乞大』は、日本でも訳注本 (金文京・玄幸子・佐藤晴彦訳注、鄭光解説『老乞大:朝鮮中世の中国語会話読本』平凡社、2002年)が刊行されている。上の例の日本語訳はここから引用した。興味を持たれた方は是非読んでみてほしい。 少し時代は下るが、17世紀に刊行された日本語学習書『捷しょうかいしんご解新語』(1676年、康遇聖・著)も読んでいて楽しい学習書だ。『捷解新語』には朝鮮と日本の役人による貿易や接待の場での会話や、朝鮮通信使の訪日時の会話、候そうろうたい体書簡文などがおさめられている。筆者のお気に入りの会話は、朝鮮の訳官が日本語を日本の代官に褒められ、謙遜するというものだ(写真4)。ここでは朝鮮の訳官が日本語学習について、以下のように話している。  「私たちも日本語を、人がみな習いやすいというのを真に受けましたが、どんなにしても暗闇に道を進むように、習うほど後退りするようでございまして、あなたの日本語をお使いになるのを聞くと、聞き取れないながらも神妙に思います。」(『捷解新語』原刊本巻9第17張裏~第18張裏)  朝鮮の訳官のこのセリフは、「朝鮮語は日本語と似ているから勉強しやすい」と聞いて始めてはみたものの、次第に似ているからこその難しさを感じるようになった筆者自身の実体験と重なるところだ。何百年も前の人と語学学習上の悩みが通じ合うとは、非常に感慨深いものがある。 ところで、『捷解新語』という書名はいわば「早わかり日本語」という意味だが、なぜ「新語」が「日本語」を指すのか、その理由は明らかでない。司訳院にはもともと漢学、蒙学が設置されており、のちに倭学が新たに設置されたため、これを「新語」「新学」と呼ぶようになったことに由来するという説、「新しい要求にもとづいた日本語学習」に由来するといった説がある。 このように、語学学習書を読んでいると、当時の人々の暮らしや考え方を垣間見たような気持ちになり、いつの時代も人間は変わらないものだと時にホッとすることもある。これが語学学習書の魅力だ。語学学習書をみんなに読んでほしい 読んで楽しい、眺めて楽しい語学学習書ではあるが、研究資料として扱うにはいくつかの問題が存在する。まず、それぞれの言語が、当時通用していた自然なものであったかという点だ。たとえば『捷解新語』には、日本語に不自然な部分があったり、朝鮮語訳が日本語の影響を受けていたりと、相互に干渉が見られることが先行研究によって指摘されている。これは『捷解新語』に限らず、どの文献にも関わる問題だ。更にこれと関係して、朝鮮語と学習対象言語の両方の歴史的知識が要求されるという点も、研究資料として扱う際の壁となるだろう。 現在、筆者は語学学習書を言語研究の資料としてもっと広く知ってもらい、活かすことができないかと考え中だ。何より、こんなにおもしろい本が一部の人にしか知られず、読まれないなんて、もったいないと思うのだ。

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