フィールドプラス no.20
27/36

朝霧に煙るシュメンのトンブル・モスク。私が訪れたときは修復中であった。ブユクチェクメジェ橋。優雅なこの橋は、今でも徒歩で渡ることができる。ブルガリア建国1300周年記念碑。シュメンの町を見下ろす高台に、第一次ブルガリア帝国建国から1300年を記念して、1981年に建てられた。ブルガリアの偉大な王をモデルにした彫刻のはずだが、ロボットアニメのキャラクターに見えなくもない。25境にほど近い場所にある町の名前である。現在のヴィゼは、ヴィゼ出身の知人に「あの町にわざわざ見に行くほどのものなんて何もないよ」と酷いことを言われてしまうほどのトラキア平原の田舎町であるが、城壁が残る高台に登ると、どこまでも黒々とした土を蓄えた豊かな畑の緑が広がる光景がよく見える。16世紀の財務帳簿の記録からは、ヴィゼ一帯には耕地が広がり、豊かな農業生産があったことや、ヴィゼには多数のユリュクが住み着き、農地を耕し家畜の放牧を行いつつ、ブユクチェクメジェ橋の建造のように、政府の命令に応じて様々な仕事を請け負っていたことが分かる。元々は「遊牧民」であったユリュクが、ヴィゼにやって来た後、移動生活をやめて農業や牧畜を行うようになった理由が史料を読むだけではよく分からなかったが、現地でこの豊かな農地が地平線まで広がる風景を見て、はっきりとした根拠ではないものの、ユリュクがヴィゼに定住して農業を始めた理由がふと分かった気がした。結びにかえて:シュメンのオメルは故郷が大好き バルカン半島に残るオスマン朝時代の文物を見て回ろうと、濃い緑に覆われたブルガリア北東部の都市シュメンを私は訪れた。今でもここは、人口の3分の1がトルコ系という、ブルガリアでも有数のトルコ系住民が多い町である。他地域では、重い税や仕事の負担を嫌ってユリュクの人口が減少していき、ついには周囲の人々に同化して消え去っていく中で、シュメンの町があるバルカン山脈北麓は17世紀においても依然として多数のユリュクが住んでいた。シュメン一帯に住むユリュクが、帝都イスタンブルから課せられた仕事への動員命令を拒否したり、送られた先から逃げ帰ったりした記録が、今もイスタンブルの文書館に残っている。 シュメンのランドマークであるオスマン朝時代のトンブル・モスクや、オスマン朝時代の文物の展示が多数ある博物館を見て回り、残すは町の高台にあるブルガリア建国1300周年記念碑のみとなった。道で拾ったタクシーに乗り込み、「建国記念碑へ。シュメンを出る最終バス発車時刻の午後4時までにはバスターミナルに戻って下さい。」とうろ覚えのブルガリア語で伝えようとしたが、うまく言葉が出てこない。思わず、トルコ語で「4時!」と言ってしまうと、タクシー運転手が驚いた顔をしてこう言った。「お前、トルコ語話せるのか! じゃあトルコ語で話そうぜ。俺はトルコ人だ。」 彼、オメルはシュメン生まれシュメン育ちのトルコ人だという。 「ところでお前はどこから来たんだ? そして、なんでトルコ語を話せるんだ?」 「私は日本人。今は東京に住んでいるけど、昔、イスタンブルに住んでいた時にトルコ語を覚えたの。」 すると、オメルは「イスタンブル」という単語を聞くや否や、舌打ちした。 ブルガリアのトルコ系住民は、ブルガリア語風姓名への改名強制といったブルガリアへの厳しい同化政策に苦しめられ、冷戦終結前後、経済的にブルガリアより豊かなイスタンブルなどのトルコの大都市に、「難民」や「移民」としてやってくるようになった。そこでは「同胞」を歓迎する声の裏で、生活習慣の違いからくる摩擦や安い賃金でも働くブルガリア出身者を馬鹿にする残念な声もあった。オメルもイスタンブルに苦い思い出があるのだろうかと私があれこれ考えていると、オメルはこうまくし立てた。 「俺はイスタンブルが嫌いだ。だってイスタンブルは人間が多すぎるだろ! 俺はイスタンブルで4年働いたけど、シュメンが恋しくて病気になってシュメンに帰ってきた! あんな人間が多いところに住むのは健康に悪い! シュメンを見てみろ!こんなに緑に囲まれた美しい町は世界で他にはない。俺たちトルコ人はここシュメンに先祖代々住んできたんだ。ここが俺たちの故郷だ。ここがブルガリアで俺がトルコ人でも、シュメンこそが俺の故郷だ。イスタンブルのように人が多いところに住むと病気になる。お前はイスタンブルなんかにはもう住まずに、ずっと東京に住むといい。」 「でも、イスタンブルの人口は約1,500万だけど、東京大都市圏の人口は約4,000万だよ。」 「お前……そんな人の多いところに住んでいると病気になるぞ! 東京には帰るな! 今日からシュメンに住め!」 もちろん、オメルがイスタンブルのオスマン朝政府との対立も辞さないシュメンのユリュクの子孫かどうか本当のところは分からない。ただ、イスタンブルと時に対立しながらも、シュメンに住み続けたユリュクの「精神」は、オスマン朝が滅んだ今もこの土地で生き続けているようである。 史料や研究に直接関係があることは滅多にないが、思わぬ発見や出会いがあるフィールド。そういった予想外の体験を求めて、今日も史料を読みながら、まだ見知らぬ土地への旅の計画を練っているのである。*写真はすべて筆者撮影。

元のページ  ../index.html#27

このブックを見る