オスマン朝の歴史を研究する私の主なフィールドは、史料がたくさん残るイスタンブルやアンカラといったトルコの大都市の公文書館や図書館になるだろう。しかし、文書館や図書館を飛び出して史料に登場する土地を実際に訪れてみると、予期せぬ出会いがそこにはある。ソフィアスコビエビトラテサロニキアタテュルク博物館への案内標識。1902年にイタリア人建築家の設計で造られた「新モスク」は、筆者が訪れた際にはテサロニキ市立博物館付属の展示会場として使われていた。ヴィゼ城跡の高台より。田舎町のヴィゼの向こうには広大で青々としたトラキア平原が広がっていた。エーゲ海シュメンヴィゼイスタンブル黒海24マケドニアブルガリアギリシアトルコ序:バルカン半島に残るオスマン朝の足跡 「私はバルカン半島のトルコ系遊牧民の歴史を研究しています。」と言うと、たいていは怪訝な顔をされる。しかし、現在はブルガリア、ギリシア、トルコなどの国に分かれているヨーロッパ南東部のバルカン半島には、アナトリア西北部で誕生したオスマン朝により、500年近く支配された歴史がある。オスマン朝の支配下で、バルカン半島の各地にはモスクや隊商宿が建てられ、トルコ語を母語としイスラームを信仰する人びとが住み着いていった。そういった人々は、しばしば「遊牧民」を意味する「ユリュク」や、遊牧生活を送るトルコ人を意味する「テュルクメン」と呼ばれた。 しかし、オスマン朝の領土は、17世紀以降は縮小し、20世紀にはオスマン朝そのものが消滅してしまう。現在のバルカン半島で、オスマン朝時代の建物やユリュクはどうなっているのだろうか。テサロニキ:コジャジュク・ユリュクとトルコ建国の父 現在はギリシア第二の都市であるテサロニキは、20世紀初頭までは、ギリシア系のみならず、ユダヤ系、トルコ系、スラヴ系といった様々な人々が住む都市であった。テサロニキは、トルコ共和国建国の父であるムスタファ・ケマル・アタテュルクの生まれた町でもあり、彼の生家は博物館として公開されている。その向かいの店では「聖地巡礼」に訪れたトルコ人観光客を対象に、アタテュルクの顔がプリントされたミラーや栓抜き、名刺入れといったアタテュルク・グッズが売られている。 博物館のアタテュルクの幼少期を紹介するコーナーを何気なく見ていて、一つの展示の前で私は息を呑んだ。そこには「アタテュルクの父、アリー・ルザー・エフェンディは、マナストゥル州…(中略)…コジャジュク郷で生まれた…(中略)…この郷に住むトルコ人は、『コジャジュク・ユリュク』として知られている。このユリュクはオスマン朝によりバルカン半島に定住させられたテュルクメンの子孫である。」とある。確かに、ビトラには今でも「コジャジュク」という名前の村があり、アリー・ルザー・エフェンディの生家が博物館として公開されている。そして、この「コジャジュク・ユリュク」は、ユリュクの歴史を研究するためにトルコの公文書館に残る16世紀に作成されたオスマン朝の財務帳簿を調査する中で、私が何度も目にした言葉であった。16世紀のビトラにコジャジュク・ユリュクが生活していたことを示す明白な記録は残念ながら未発見だが、後の17、18世紀の史料には、ビトラ一帯にユリュクが生活していたという記録がいくつもある。時代の違いはあるものの、まさか、トルコ建国の父の生家で、私が研究で追っている「ユリュク」に出くわすことになるとは、予期せぬことであった。ヴィゼ:地平線まで広がる耕地から気付いたこと オスマン朝の帝都であったイスタンブルのトプカプ宮殿から西に30キロメートル離れたところにあるブユクチェクメジェ(大入江)地区には、石造りの優美な橋がある。この橋は、ユネスコ世界文化遺産であるエディルネのセリミイェ・モスクを建てた建築家ミマル・スィナンにより設計された。人々に今も利用されており、橋の中央には、1567年に橋が完成したことを記念する銘文が掲げられている。 ブユクチェクメジェ橋の建造にあたってはオスマン朝各地から様々な人が動員された。その動員された人々の中には、橋やモスクといった大規模な建造物の建設現場で働く代わりに税金を減免されていた、バルカン半島に住むユリュクの姿があった。イスタンブルの文書館に残る公文書からは、1566年2月27日に、ブユクチェクメジェ橋の建設現場で働くよう「ヴィゼ・ユリュク」に命令が下されたことが分かる。 この命令に登場する「ヴィゼ」とは、イスタンブルから北西に120キロメートル、ブルガリア国フロンティア史料とフィールドが「交差」する時バルカン半島にトルコ系遊牧民の足跡を求めて 岩本佳子 いわもと けいこ / AA研ジュニア・フェロー
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