高齢者施設のみを経営していくことが難しい場合、他の事業もあわせて行う。そうした事業として行われているケータリング・サービスのメニュー。施設のスタッフであるデザイナーがデザインを手掛けている。レバノン料理もメニューにあるが、写真が付されているのはフィッシュ&チップス。オープンして間もないデイ・ケア・センター。マロン派キリスト教修道院の隣でオープンして間もないホームの部屋。調度類などがホテルのような印象を与える。実際、ホテル経営の経験者がホームの経営に携わっている。「修道士たちでは切り盛りできない」ため、実務経験者が抜擢されたのだとか。シーア派イスラーム系慈善協会が運営するホ ーム入口に置かれた喜捨用の箱。調査アシスタントを務めてくれたマロン派のキリスト教徒は、こうした箱が要所要所に置かれていることに関して違和感を示し、「我々とはお金に関する文化が違うのかもしれない」と感想を述べた。社会福祉の経済的側面に宗教的・文化的違いが関わることを示唆する、興味深い発言である。スを、代表的な宗派についてそれぞれ見て回ることがひとつの柱となっている。もうひとつの柱は、高齢者および彼らの家族関係や高齢者施設をめぐって現在のレバノンの人びとがどのようなことを考えているのかを、街中でのインタビューや世間話を通して理解していくことである。これによって、レバノンで進行しつつある高齢化に関する人びとの認識を、より日常的な次元で観察することができるからである。 ある日、調査地間の移動に用いたタクシーの運転手と雑談を交わした際、ふと思いついて「理想の死に方ってありますか?」と尋ねてみた。相手はシーア派のイスラーム教徒である。一般的な理解によれば、イスラーム教徒は、生涯で一度は聖地マッカ(メッカ)に巡礼をすることが宗教的義務とされている。この運転手も、そのような宗教的観点から死について話してくれるのではないかと筆者は予想した。また、そのような返答に半ば合わせるつもりで、筆者自身の理想の死に方(読経に包まれて死ぬ)についても話してみようと考えていた。ところが先の質問に対して、運転手は次のように答えた。「そうだなあ。仕事なんかしている時に、ただちに死ぬようなのがいい。父親がそうだった。さっきまで隣の部屋で作業をしていたと思ったら、母親が見た時には死んでたんだ。」 これはつまり、日本で言う「ぽっくり死ぬ」に相当する死に方と言えよう。日本人が言いそうなことをレバノン人も口にした点に筆者は興味を覚え、自分自身で用意してきた「読経に包まれて死ぬこと」についても先方に話してみた。すると、「ああ、そういうのイスラームにもあるぞ。死にそうになったらシャイフ(大雑把な表現をすれば、イスラームの宗教者)を呼んできてだな、『あなたはこれまでとても良い人でした』といったいい言葉を聞かせてやるんだ。問題は、人がいつ死にそうになるのかなんて、誰にも分らないヨメとシュウトメ 同様な経験は他にもある。現代の妻は夫の両親の世話を嫌がるようになったということを様々な人々が口にするのである。端的に「今の世の中、ヨメとシュウトメはそりが合わない」と言った人もいる。これまでに様々な施設や人びとから聞き取りを行ったが、宗派および他の側面における多様性にもかかわらず、ヨメとシュウトメの間柄の話は、そうした多様性を貫いて繰り返し聞こえてことだな(笑)」と言った。いちおう宗教的な脈絡で応答してくれたものの、他人事として語り、それはこの発言の最後が冗談になっている様子でもうかがえるだろう。人の死という宗教に密接に関わる話題でありながら、ある一人のレバノン人イスラーム教徒の口から語られるのは意外にも、我々にとって少なくとも表面上はわかりやすく見える発想であるというのはどういうことだろうか。くる何かであるという感触を筆者は持っている。 こうした語りがどのような社会・文化的背景から生じているのか、筆者はまだ明確な考えを持たない。しかし、高齢化の現象を通して、現代のレバノンが被りつつある家族のありかたの変化を垣間見ることができるのは、間違いないものと思われる。これまでのところ筆者がフィールドワークを通して目の当たりにしたのは、宗教の違いが社会形態のありかたに結びつく面と、そうした想定を裏切るかのような、しかもどこか我々にも近しい事柄との両方である。一見すると日本とは縁遠く感じられる中東であり、その縁遠さは宗教に由来するかのようなイメージがあるかもしれないが、宗教と生活の関わりという見慣れなさの中に、突如として「ぽっくり死」やヨメとシュウトメの話など、見慣れたものが現れてしまう、その複雑さを、レバノンの高齢化の現象を通して見つめて行きたいと考えている。21
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