フィールドプラス no.20
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東京でデモ行進をするロヒンギャの人々(1996年)。ピンクのカードは、ミャンマー国民に発行されている身分証明書。民族名にはロヒンギャとは書かれず、ベンガリと記入されている。ブルーのカードは、ロヒンギャに発行されている身分証明書。このカードは日本の外国人登録証明書(在留カード)に相当する。ンに移住した。当時、ティダは3歳だった。 母と兄弟とともにティダは小学校6年までヤンゴンで暮らした。ヤンゴンは仏教徒が多く、彼女は「カラー(ベンガル系に対する蔑称)」と呼ばれ、いじめられた。社会的な蔑視のみならず、法的にも差別を受けた。12歳になると与えられるはずの国民カードがロヒンギャ族であることを理由に取得できなかった。両親が相談した結果、ちょうど日本にいる父に難民認定が下りたこともあり、母は子どもたちを連れて日本へ移住した。10年かけてようやく叶った父との初対面、そして家族団欒だった。 来日した当初、館林市に暮らした。当時、ティダは日本語が話せず、しかも、ハラルでない学校給食は食べられないため、お弁当を持参した。親は毎日違うカレーを作ってくれたが、同級生には「あいつの弁当いつも茶色いなあ」といわれ、いじめに遭い国籍取得とアイデンティティ この件をきっかけに家族会議を開き、このままでは今後も困難が続くだろうとの理由から日本国籍の取得を決断した。帰化手続きの書類集めは難航した。かつて持っていたミャンマーパスポートはもはや手元になく、一方で在留カードなどの書類上に明記されているミャンマー国籍という身分と齟齬がある。また、無国籍ゆえ彼女の身分を証明してくれる政府機関もない。帰化申請しては却下され、書類をかき集め何度もつらい中学時代を過ごした。その後、日本語を習得。環境も変わり、高校そして専門学校時代は楽しかった。16歳の時、親に連れられタイに行くと、翌日、初めて会うロヒンギャ族の許いいなづけ嫁と結婚することになった。「正直、驚いたが両親が選んだ人なので信じた」。夫は一旦ミャンマーに戻り書類を整え半年後来日した。「結婚してから相手を知るのも毎日が新鮮で悪くない」とティダはいう。現在は4人の子どもに恵まれ幸せな生活を送っている。 ティダが建築を学ぶ専門学校に通っていた頃、卒業前にスペインとイタリアへ半年間留学するプログラムが組まれていた。留学準備のため、ミャンマー大使館へパスポートの更新に行くと、持っていたミャンマーパスポートは取り上げられ、更新も拒まれた。一方、日本が発行した彼女の在留カード上の国籍・地域欄にはミャンマーと記載されている。こんな状況でどうすればよいのか法務局に相談すると再入国許可書が発行された。再入国許可書とは、無国籍者や難民などパスポートが取得できない在日外国人に法務省が発行している渡航書である。ティダは留学のため、再入国許可書でビザ申請をしたが、結局、目的国のビザは取得できず留学を諦めざるを得なかった。ティダの夫と日本で生まれた子どもたち(2017年)。おわりに 故郷を追われ、帰る場所を失った無国籍の子どもたちがいる。せめて彼らが安心して暮らせる居場所を持てるような社会を築くには、国籍や宗教、民族を超える新しい視点が必要だ。そのヒントは、越境をする子どもたちの生身の体験や彼らの声から見つけ出すことができるのかもしれない。申請し直し、許可されるまで6年もの歳月を要した。今では日本名も使っている。しかし、彫りの深い彼女の見た目から外国人扱いされることが多い。 「それでも日本国籍を取得してよかったことが3つある」とティダはいう。まず第1に、「海外に出るのに便利になったこと」。そして第2は、自分の居場所があると思えるようになったことを挙げた。「再入国許可書を持っていた無国籍の頃は、海外滞在中に緊急事態が起こった際、どこに送り返されるかわからず、保護してくれる政府機関もなかった。帰る場所がないと感じいつも不安に思っていた」という。そして第3に「投票権。つまり自分たちを支配する人を自分が選べること」を挙げた。 今後、ミャンマーに戻りたいかときくと、彼女は「自分にとってアラカンは故郷だけど、自分の子どもたちにとって、もはや日本が故郷。アラカンに戻っても居場所はなく暮らしにくいので戻ろうとは思っていない」という。「私たちは日本が大好き。でも、見た目から完璧な日本人として扱われない。外見を重視するのは正直やめて欲しい」と日本への愛着と要望を表した。「私は日本国籍のロヒンギャ族です」。ティダはきっぱりといった。「自分の子どもたちにも、しっかりこのアイデンティティを受け継いでほしい。そして、日本をはじめもっと多くの人にロヒンギャの問題を知ってもらいたい」。11

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