フィールドプラス no.2
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12Field+ 2009 07 no.2 「あぁ、そのナマコですかぁ。あれは、うちのオヤジが最初に手をつけたんです」 探しつづけていた情報に接し、思わず身震いすることがある。この発言を耳にした時もそうだった。2007年10月、老舗との定評ある北海道のナマコ加工業者を訪問したときのことである。 仕事の邪魔になるから、そろそろインタビューをきりあげようと雑談している際に、ワシントン条約が話題になったところで、この発言にいきあたったのである。ここでいうナマコは乾燥させたもので、フカヒレや干アワビなどと同様に清代以降の中国で宮廷料理の食材として君臨する海産物である。第2次世界大戦を契機として、これらの乾燥海産物貿易はとだえたが、1970年代から徐々に復活し、1980年代半ば以降は、ふたたび活発化し、近年では、資源の枯渇を危惧するワシントン条約の場において、国際貿易の規制が検討されるにいたっている。同条約は、正式名称を「絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約」といい、1973年に米国のワシントンで成立したことから、日本ではこの通称で知られている。 ワシントン条約でナマコが問題視されるようになった背景には、中国経済の台頭のみならず、経済のグローバル化がおよぼす地球環境問題への懸念がある。その代表例が、チャールズ・ダーウィンが進化論を構想したことで有名な太平洋にうかぶ孤島、ガラパゴス諸島(エクアドル)で、1995年以降に幾度となくくりかえされ、「ナマコ戦争」という衝撃的なコピーで知られる環境保護論者と漁民との衝突である。 問題となったIsostichopus fuscus(以下、フスクス)というナマコは、メキシコの太平洋岸からガラパゴス諸島にかけて生息している。そもそも、そのフスクスの採取がはじまったのはメキシコで、1980年代なかごろのことであった。まさに東南アジア諸国や中国の経済上昇にともない、世界のナマコ市場が拡大傾向にあった時期にあたる。日本や東南アジアでも、この時期にナマコ生産が本格化している。 メキシコでの資源開発に連動するように、1988年にはエクアドルの本土(南米大陸側)でもフスクスが採取されるようになった。ひとりあたりの年間所得が1600米ドルに満たないエクアドルで、1日に数百米ドルを稼ぐことのできるフスクス漁に人びとは魅了された。水深40メートル以浅の岩礁域に生息するフスクスは、容易に採取しうるため、またたく間に獲りつくされてしまい、1991年から漁民たちは大陸から1000キロメートルも離れたガラパゴス諸島でも同種を採取するようになった。 わたしの理解では、戦争をしかけたのは環境保護論者側である。かれらの論理はこうだ。ナマコ資源が枯渇すれば、当然、生物多様性もそこなわれる。第一、島の生態系を無秩序に撹乱する漁民など上陸させるべきではない。しかも、ガラパゴスのシンボルでもあり、環境保護運動のカリスマ的存在でもあるゾウガメまでを食用にするなど、もってのほかだ。環境保護論者の意向をくみ、1992年8月に大統領令によってガラパゴスにおけるナマコ漁は禁止された。 突然の禁漁命令に納得しない漁師たちは密漁をつづけるかたわら、ガラパゴス出身の政治家やナマコ産業関係者たちと協力してエクアドル政府にナマコ漁の再開を懇願した。政府は資源量の捕獲調査として1994年10月15日から3ヶ月間に55万尾の漁獲を許可した。正確な量は把握できていないが、2ヶ月間で1千万尾が漁獲されたと推測され、事態を重視した当局は予ガラパゴスのフスクス。Steve Purcell氏撮影。フスクス・ナマコと華人企業家 環境問題の死角をうめる赤嶺 淳あかみね じゅん / 名古屋市立大学、元AA研共同研究員

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