タンジュンピナンField+ 2009 07 no.2ビンタン島中国式祭具を備えた杭上家屋の入り口。10 インドネシア華人研究を標榜しながら、筆者はながらくジャカルタの政治動向を横目で追いつつ、社会調査の面ではジャワのある町にもっぱら焦点を当ててきた。ここ数年、スマトラ東岸沖合いに広がるリアウ群島、なかでもシンガポールと海峡を隔て目と鼻の先のビンタン島の港町タンジュンピナンで現地調査を行なう機会を得た。ここは海域ムラユ世界のただなかである。ムラユとは英語のMalayの語源となった現地語で、同名の古代王国やその末裔の意識をもったエスニック・グループを指す場合もある。しかし私のいう海域ムラユ世界とは、単にムラユ人(マレー人)を中心とした歴史世界や生活世界を指すのでなく、マラッカ海峡域に代表される島嶼部東南アジアの沿岸部に住んだり、海を越えて島々を往来する多種多様な人々が全体として作り上げている社会文化空間をイメージした用語である。その様相はジャ華人の水上集落で遊ぶ近所のムラユ人の子ら。杭上家屋から成るタンジュンピナンの華人集落。ワとは随分ちがう。華人コミュニティについても然りである。 まず驚いたのは、タンジュンピナン市街から入り江をはさんで対岸地区にある全300戸ほどの華人集落(カンプン・チナ)が、杭上家屋の集まった水上集落を成していることだ。漂海民として知られるサマ人や海洋民族ブギス人の水上集落はリアウ群島のあちこちでも目にしたが、華人の水上集落を見たのは初めてだった。ジャワの各都市にもチャイナタウンの原型となったカンプン・チナは古くからあるけれど、為政者の隔離措置によって形成された面が強い。ここでは、他の民族集団の集住地、例えば隣接するブギス人集落などと自然に棲み分けつつ、漁業や海上運送業など生活上の便宜に従って形作られた面の方が大きいようだ。現在のカンプン・チナは高齢者の世帯が多い。今でも小舟を出して漁をしたり、裏手の土地で果潮州語で歓談するブギス人と福建系華人の男性。売り手にも買い手にも華人とムラユ人が入り混じる朝市の風景。樹栽培をする者もいるが、隣接するバタム島(インドネシアとシンガポールが共同で工業団地を作っている)やジャカルタ、シンガポールなどに出稼ぎした若年世代からの仕送りが地区の経済を主に支えている。古い木造の家々に混じって、小奇麗なモルタルの杭上家屋が増えつつあること、また新旧問わずほとんどの家で中国式の祭壇を祀り、戸口には天公(中国系の人々の多くが崇める天の最高神。玉皇上帝ともいう)に祈るための線香立てが備えられている光景が印象的だった。 華人とそれ以外の住民との関係の在り方も独特である。ジャカルタやジャワでは「土着の民」を意味するプリブミという呼称が、「よそ者」とされる華人と政治的に二項対立的な色彩を帯びて使われてきた。リアウでは「ムラユ」がプリブミに相当する言葉としても用いられている。チナとムラユという分類の意識はたしかに存在するが、日常の社会実態からみると、両者はジャワの華人とプリブミよりはるかに融和している。華人とムラユの商人が路傍に並んで腰かけ、海産物や野菜を売っている朝市の光景は典型的だった(ジャワならば華人の店舗の軒先にジャワ人がゴザを敷いて細々と商う)。また、カンプン・チナの裏手の中国廟の門前で、椰子の実ジュースを売っている初老のブギス人のアブさんと、筆者を案内してくれた華人のジェミおじさんのやりとりに驚いた。両者ともこなれた潮州語である。福建系華人のジェミさんが母語の福建語でなく、タンジュンピナンの華人社会で優勢な潮州語を操るのはまだしも、ブギス人のアブさんも、30年来華人と一緒に商売する間に潮州語の会話をすっかりマスターしてしまったのだという。 ジャワでは数世紀来人口的にも圧倒的なジャワ人の社会・文化に華人が混淆し、インドネシア語やジャワ語を母語とする現地生まれのクレオール華人(プラナカン)が生み出されてきた。スハルト体制期には、インドネシア社会と国家に華人が「同化」することが政治的に求められ、華人側も表面上それに応じた。他方、リアウでは「ムラユ」とされる人々(狭義のムラユ人以外にブギス人やフローレス人やパダン人やジャワ人であったりする)を含め、誰もが数世代遡れば「よそ者」である。ここの華人は、誰か特定の他者に同化するのでなく、あわあわとした海域ムラユ世界それ自体の中に、他の人々ともども自然に溶け込んでいるように映る。ここでの人々の共生の在り方は、スハルト体制期にもそれ以前からも、さほど変わりなく続いてきたように思えてならない。スマトラ島インドネシアジャワ島海域ムラユ世界に溶け込む華人貞好康志さだよし やすし / 神戸大学大学院、元AA研共同研究員
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