FIELD PLUS No.19
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29FIELDPLUS 2018 01 no.19図版5 『ムフタシャム・カーシャーニーの七詩集』、増補のちヒジュラ暦1088年(1677/78年)完成、イラン国立図書館、所蔵番号458。第6〜9行が図版3左の(5)に相当。このラスター彩陶製墓は、「ヒジュラ暦967年ジュマーダー第二月25日(1560年3月23日)」に歿した「シャイフ・ジャマール・アッ=ディーン・マスウード・アル=ムアッリフ・アル=シーラーズィー(以下、マスウード)」という人物の死を記録しているものとわかる。本稿でとりわけ着目するのは、⑸の部分にアラビア文字のナスタアリーク書体で書かれた以下のペルシア語詩だ。   「時代の飾り、麗シャイフ・ジャマールしの尊翁/  此の世で彼ほどの『甘美ナ声ノ挽ムアッリフ歌誦ミ』  に逢うた者は無し/  彼が此の世を去り天国へ向かったとき/  その日付(クロノグラム)を『甘美ナ声ノ  挽歌誦ミ』に求めよ/  悲しみにくれ、我が詩的才能は、アリフと   バーの区別もつかぬ/  もし、一年が…(以下、ひび割れのため判読   不能)」  アリフとバーは、アラビア文字の最初と2番目の文字である。先行研究においてこの詩は、「ペルシア語で書かれた宗教的な詩」として言及されたのみで、同定はおろか、解読や訳出すら一切試みられたことがなかった。第一の謎:誰のために、何のために作られた詩か このペルシア語詩は誰のために、何のために作られたものか。 その答えは、詩の中に二度登場する語句、「甘美ナ声ノ挽歌誦ミ」の中に隠されている。詩の4行目にあるように、この語句はクロノグラム、すなわち各文字に当てられた数字を合計して年代を表す句となっている。東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所情報資源利用研究センターのウェブサイト『アラビア文字紀年銘(クロノグラム)年代計算プログラム』(http://coe.aa.tufs.ac.jp/abjad/JP/?page_id=23)を用いて、「甘美ナ声ノ挽歌誦ミ」の原文、 mu‘arrif-i shīrīn-adā(ラテン文字転写で “M‘RF SHYRYN ADA”)の12文字を計算してみよう。合計は、40+70+200+80+300+10+200+10+50+1+4+1=966となるはずだ(図版4)。この966という数は、被葬者マスウードの歿年である967年と僅かに1年しか違わない。 では、残りの1年はどこに行ってしまったのか。答えは、この詩の最後2行にある。詩の作者は5行目の「アリフとバーの区別もつかぬ」という一文は、mu‘arrif-i shīrīn-adā(“M‘RF SHYRYN ADA”)の最後のアリフ(“A”、1に相当)をバー(“B”、2に相当)に読み替えるよう、暗に促している。そのヒントに従って計算し直すと、クロノグラムの合計は40+70+200+80+300+10+200+10+50+1+4+2=967、すなわち、被葬者の歿年となる。つまり、このペルシア語詩は、被葬者マスウードの歿年を記録するため、レトリックの妙を極めた人物によって特別に編まれたクロノグラム入りの詩なのである。第二の謎:詩の作り手は誰か 残念ながら、被葬者マスウードの素性については、現時点で、謎に包まれたままだ。となると、この墓の秘密を暴くには、追悼詩の作り手が誰であるのかを追及することが正攻法となろう。 筆者は、追悼詩の作り手が、サファヴィー朝期(1501-1722年)イラン最大の詩人、ムフタシャム・カーシャーニー(1588年歿)であることを突き止めた。墓に記されたペルシア語詩は、ムフタシャムの遺言に基づき彼の直弟子が編纂した詩集(『七詩集』)の第6章「特別な機会のために」に収められている。クロノグラム入りの詩のみを扱うこの章には、ムフタシャムの身近な人々の誕生や昇進のほか、建物の竣工を記録するために編まれた詩などが収録されている。 興味深いことに、イラン国立図書館所蔵の現存最古の『七詩集』写本(所蔵番号458)の「甘美ナ声ノ挽歌誦ミ」の項目を見ると、訳詩3行目に当る部分だけ若干内容が異なっている(図版5)。写本に記録されていながら、墓碑として採用されていないこのバージョンは、ムフタシャム本人がボツにしたものなのだろうか。あるいは、弟子が師の言葉の運び方に不満を持ち、勝手に書き直したのだろうか。この問題は、未だ解決を見ない。最後の謎:墓はどこで作られたのか これまでの調べで、マスウードの墓には、製作者サイドの人間として、クロノグラムの達人ムフタシャム・カーシャーニーが関与していることが明らかになった。裏を返せば、ムフタシャムの活動範囲内で、マスウードの墓─すなわち、ラスター彩陶製墓─が作られたと推定することに無理はない。 ムフタシャムは実に、生涯をカーシャーンで過ごした詩人として知られる。このことは、ムフタシャムの存命中および歿後50年以内にイラン、中央アジア、そしてインドで編纂された詩人伝(詞華集)や年代記の記述から明らかである。多くの詩人や画家が、より良いパトロンを求めてイランからインドへと渡った時代に生きたにも拘らず、彼はイランに、それも、生まれ故郷カーシャーンに留まり、詩作を続けた。 つまり、マスウードの墓の碑文中のペルシア語詩は、16世紀半ばに至るまで、ラスター彩技法がカーシャーンにおいて保持され続けていたことを示唆しているのだ。今後研究者たちは、写本以外のメディアに残されたペルシア語詩について、精査していかなくてはならないだろう。その際に、本稿で利用した『アラビア文字紀年銘(クロノグラム)年代計算プログラム』が大いに役立つであろうことは、言うまでもない。カスピ海ペルシャ湾イランテヘランカーシャーンゴム

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