FIELD PLUS No.19
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28FIELDPLUS 2018 01 no.19フロンティア謎解きラスター彩陶コードネームは「甘美ナ声ノ挽歌誦ミ」 神田 惟 かんだ ゆい / 東京大学大学院人文社会系研究科博士課程、日本学術振興会特別研究員(DC1)ラスター彩陶は15世紀以降、イランのどこで作られていたのか。この問いは、とある16世紀半ば製のラスター彩陶製墓の碑文の解読によって決着を見た。思いもよらぬ暗号が、碑文中のペルシア語詩に隠されていたのだ。図版1 「サアド」銘入りラスター彩陶器片(11世紀、エジプト・フスタート製)。Fouquetコレクション旧蔵フスタート採取陶片コレクション、公益財団法人大原美術館(倉敷)蔵、所蔵番号V.C.65。筆者撮影。図版3 ラスター彩陶製墓(ヒジュラ暦967年ジュマーダー第二月25日[1560年3月23日])、ハンブルク美術工芸博物館(ハンブルク)所蔵、所蔵番号1960.64。©Museum für Kunst und Gewerbe in Hamburg. 左は碑文構成図。図版4 『アラビア文字紀年銘(クロノグラム)年代計算プログラム』のウェブページ。 “M‘RF SHYRYN ADA”の12文字の計算結果を示している。同プログラムについて詳しくは、本誌13号23ページの記事をご参照下さい。図版2 ゴムのファーティマ廟内部に設置されたラスター彩陶製棺(13世紀初頭、カーシャーン製)と参詣者たち。この棺は、現在は廟附属のアースターネ・モガッデセ美術館に移管されている。写真提供:Behzad Yousefzadeh氏。ラスター彩陶とイラン 「赤あかがね金のように輝き、太陽の光のように照る」―1300/01年、イル・ハーン朝第8代君主オルジェイトゥ(在位1304-16年)に仕えた歴史家アブー・アル=カースィム・カーシャーニーは、自著『鉱物の花嫁と香水の秘宝』の中で、焼成に成功したラスター彩陶をこのように形容している。この表現が、強ち誇張ではないことは、実際に肉眼でラスター彩陶を観察するとよく解る(図版1)。ラスター彩陶とは、胎土の上に釉薬を施し一度焼成したのち、銀や銅などの酸化金属を含む顔料で絵付けし、さらに還元焼成した上で、表面を磨いて煤を取り除くことによって、輝き(英語で「ラスター」)を得たタイプの陶である。 ラスター彩技法がエジプトからイランに伝わったのは12世紀末のことだ。13世紀になると、この技法は、宗教施設などの大規模な建築物を彩るタイルを装飾する技法として広く用いられるようになった(図版2)。やがて14世紀半ばになると、ラスター彩タイルの用途は多様化し、個人の死を記録する墓碑にも適用されるようになったが、その品質・生産量には次第に陰りが見えるようになった。その後、15、16世紀の低迷期を経て、17世紀後半に再び、ラスター彩技法は容器に好んで適用されるようになり、再興を遂げた。 12世紀末から14世紀半ばまでの間、イランでは、中北部に位置する都市カーシャーンのみでラスター彩陶が製作されていた。このことは、陶に施された銘文の内容(「カーシャーン出身の」あるいは「カーシャーン在住の」陶工によって製作されたという内容など)のほか、カーシャーンの名門陶工一族の出身であった前述のアブー・アル=カースィムが、ラスター彩陶の材料や製作方法について小論を残していることから、ほぼ確実であり、現在、多くの研究者たちの合意するところだ。 他方、15世紀以降のラスター彩陶の製作地については、未だ明らかにされていない。当該時期のラスター彩陶に関して言えば、銘文中に製作地や陶工の出自を示す情報はなく、製作地同定に結び付くような記述を有する一次史料は知られておらず、さらには、窯址や焼き損じ品の出土が一切確認されていないためである。読み解かれなかった詩 筆者は、とある16世紀半ば製のラスター彩陶製墓の碑文を読み解くことで、手掛かりのない15世紀以降のラスター彩陶の製作地について、新たな知見を得た。考察の対象としたのは、ハンブルク美術工芸博物館所蔵のラスター彩陶製墓(所蔵番号1960.64)(図版3)の碑文である。この碑文は、内容・言語・字体によって、5つのパートに分けることができ(図版3左)、⑷の部分から、

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