FIELD PLUS No.19
24/36

コルカタニューデリー中国インド*写真はすべて筆者撮影22FIELDPLUS 2018 01 no.19孤立化と罪の意識 2016年7月、知的障害者福祉施設津久井やまゆり園で、19人の入居者が刺殺され、26人が重軽傷を負う事件が起こった。現在裁判中の被告が、障害者は「社会の役にたたない」と示唆していたことにショックを受けた。その後メディアやSNSサイトで「障害」をめぐる議論が起こった。仕事のできる、感動を与える障害者が強調されることもあった。それなら、仕事のできない、感動を与えられない障害者はどうなるという疑問の声も聞かれた。しかしあの事件は、「障害者」の議論に留まるものではない。たとえば、「有能な障害者」と「無能な健常者」なら、あなたはどちらと一緒に働きたいと思うだろうか? ようやく大学の非常勤講師の職にありついた私自身、自分が「役立たずの穀潰し」ではないかとよく悩む。正社員として働き、妻子もいる人が年下にもいる。彼らと比べられることを恐れて引きこもることがよくあるが、人並みの苦労を避けようとしていることへの罪の意識が、やがて私を外へと駆り出す。私が専門にする文化人類学は、コミュニケーションの学問ともいわれる。でも私はそれがあまり得意でない。お酒はコミュニケーションや出世の要ともいわれるが、職が不安定なまま手を出せば、溺れて今より堕落するという恐れが拭えない。 結局、ひと月に1度でも直に会って何気ない会話ができる同世代の知人がいない生活が何年も続いている。合わせる顔のない人が徐々に増え、あと一歩が近いようで遠くなり、孤立化する。経緯はそれぞれでも、この悩みは、私だけのものではないだろう。路上の縁 その私が、インド滞在中はやけに知人の多い生活を送っている。ベンガルの大都市コルカタには、路上で世間話をする文化がある。日が暮れると、チャイ屋などの露店の周りで、2時間も3時間も談笑する人々が出てくる。この世間話には、他人の迷惑への配慮を優先するような、先進諸国の喫茶店や公共の場で共有されつつあるマナーはない。世間話をきっかけに自宅へ食事や宿泊に招いてくれる人がいるので、私はこれを地縁ならぬ路ろ縁えんと呼んでいる。路上にあり、チャイは1杯3ルピー(1ルピー≒1.75円)、外国人はもちろん、貧しい人からカーストや宗教も異なると思しきよその人まで含む、地縁よりもずっと開かれた縁だ。親密な人間関係が嫌という人もいようが、路縁に参加義務はない。 ベンガルにはこの文化があるので、行く先々で多くの知人ができて、他愛もない会話をする機会に恵まれる。私が一目見て外国人だからという面もあることは忘れないようにしているし、たまに嫌なこともあるけれど、母国では他人と言葉を交わさず数週間、なんてこともままある自分が、まるで嘘みたいに思える。 都市化が進むと、人口密度の高さとは相反するように、人間関係は疎遠になるといわれる。コルカタは、そうした都市とは少し違うのだ。市場の労働と生活 「インドのスラム」と聞いてどんなイメージをもつだろう? ある時、コルカタのスラムの市場に住み込み、朝から晩までお喋りしたり、子供と遊びながら市場の仕事の様子を見ていて気がついたことがある。 1日8時間も働く人はそう多くないこと、あまり働かない人や、仕事の下頑張った人が報われる社会が、いい社会なのだろうか? そうなると、頑張れない人や、あまり役に立てない人は、行き場を失うことはないだろうか? コルカタの路上と市場の人間関係から考えてみよう。フィールドノート 生活世界としての路上と市場インド・コルカタから澁谷俊樹 しぶや としき / 横浜市立大学非常勤講師、AA研ジュニア・フェロー コルカタの中心街エスプラネードの風景。夜のチャイ屋の風景。多くの人が世間話をしている。コルカタの路上は人が行き交うだけの場所ではなく、水を汲み、歯を磨き、水浴びする場所でもある。路上は遊びの場でもある。指で弾くビリヤードのようなゲーム「キャロムボード」。

元のページ  ../index.html#24

このブックを見る