21FIELDPLUS 2018 01 no.19の小道を歩いてみれば、男が羊の群れを見守り、女が小川で洗濯をする牧歌的な風景が目に入る。住民はチベット系で、チベット語の古い言語的特徴を残す言葉を話し、野菜や川で捕れる魚などのほかに、ハダカムギの実を碾ひいて粉状にしたうえで、バターを混ぜたお茶をかけて食べる、ツァンパと呼ばれるチベットの伝統食を主食にしている。その村には件の流派が今も存続しており、信徒は登山者のシェルパやトレッカーの案内をするなどして生計を立てている。 私が参照したかった聖者伝の写本は、1991年に亡くなったその流派の導師が所有していたものである。導師の没後、写本が誰の手に渡ったのか知らぬままに村を訪れたのだが、現地ではある信徒の協力を得て、写本のコピーをなんとか入手することができた。そのコピーは今も変わらず私の研究の上で最も重要な史料の一つである。災害による喪失 私蔵写本のコレクションの複写を手に入れるまであと一歩のところまでいきながら、その機会を永久に失ってしまったつらい思い出もある。2012年の初夏、ある知り合いの研究者の紹介を受けて、私はインド側カシミールの夏の州都、スリナガルの一軒の民家を訪れた。この家はムガル朝時代から代々写字生を輩出してきた家系で、ムスリムながらアラビア文字だけでなく、カシミール地方でサンスクリットを記す際に用いられていた、シャーラダー文字の筆記能力も有していた。家には4000点もの写本が私蔵されており、アラビア語・ペルシア語の文献が多数を占めているものの、サンスクリットの文献もかなりの数があった。家の現在の主人に聞くところによると、スリナガル市内にあるスフラワルディーヤという流派の修行場が、アラビア語・ペルシア語のみならずサンスクリットの文献の書写も依頼していたのだという。事実だとしたら極めて興味深い歴史的な出来事である。主人が次から次に写本を出してくるたびに、私は目を見張った。と同時に、これほどまでの巨大スリナガルのある民家の私蔵写本。この写真を撮影した数日後、洪水がスリナガルを襲い、写本は流されてしまう。な写本のコレクションが、ずっと私蔵されたままでいいのか、せめてデジタルデータだけでも、研究者が利用できる環境を整えた方が良くはないかと考えた。しかし、主人は慎重な性格であり、一介の外国人研究者が写本のコレクションをデジタル化させてくれといきなり頼んだところで、おいそれと首肯するとは考えづらかった。まずは信頼関係の構築が肝要と考え、それからスリナガルを訪れるたびに、この家に挨拶に行き、主人と雑談に興じた。 2014年8月末、今年はやけに雨が降るなと訝しげに思いながら、同じようにその家を訪れ、主人の出すチャイを飲み、雑談に興じた。主人の態度は徐々に軟化しており、これなら写本のデジタル化を提案できるのではないかという期待を抱かせた。そして、「また来ます」という言葉を残して私がスリナガルを離れた翌日、ジェーラム川の水が氾濫し、スリナガルを含むカシミール地方の広い地域を洪水が襲ったのである。地上から数mにも達した水は市内に2週間とどまり続け、主人の息子と連絡が取れるまでにも、同程度の時間を要した。彼から家族は無事だが、写本は全て水に流されてしまったことを告げられたとき、あの写本のコレクションがもうこの世にないという事実にどうしようもない喪失感を覚えつつも、ただただ彼らの無事を祝うほかなかった。抵抗としての私蔵写本調査 上に記したような例は極めて稀なことだが、図書館によって管理されていない私蔵写本は、何らかの災害や盗難による喪失、あるいは劣悪な環境による朽きゅう損そんのリスクが常に付きまとう。私が時間を見つけて私蔵写本の調査を行うのは、重要な写本が誰にも知られることなく時間の経過とともに消えていくという研究上の損害を少しでも回避するための、私なりの抵抗でもある。 スリナガルの聖者廟に所蔵されていたペルシア語の聖者伝。*写真はすべて筆者撮影
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